月 と 狼

 闇に浮かぶ一面の赫を、那岐は歩いていた。赫の正体は、曼珠沙華である。僅かに差し入ってくる光の他には、音もない。遠い光源には、赫に埋もれた白い塊がある。歩みを進めると、それは忍人の輪郭だった。
 手を伸べれば、その頬は骨に染み入るほど冷たく、瞼が開く兆しもない。
「・・・忍人」
 分かって、いた。彼が、現世の旅を終えてここにいることは。だから、器もまた遠からず役目を終えて土に還るのだと。けれど、ここは狭間。現と、黄泉を繋ぐかりそめの場所である。ならば、そのまま不帰の客とならなかった理由があるのだろう。
 と、微かに音がした。聴覚以外で感じる微弱なそれを探して、那岐はうっすらと微笑む。風もなく、一面の曼珠沙華が揺れた。光を放つ塊から鼓動が生まれ、赫い花吹雪が視界を満たした刹那。痛みが、那岐を空間から切り離した。


「・・・・・っ、あ・・っ・・・!!」
 熱を帯びた塊にしがみついて、匂いを感じる。汗を湿らせた、懐かしい匂い。生々しく求め合う、まぐわいの・・・いつの日も、死の影を纏わせていた忍人の。
「・・・辛い、か?」
 見上げれば、月を抱く夜空のような優しい闇がある。膝を割り、押し込まれた雄とは裏腹な、穏やかな声だ。忍人の背中を足先で頼りなく撫でるばかりの那岐には、焦らされているようにしか思えず、首を振る。
「・・・き、てよ・・は、やく・・・」
 首に回した腕に力を込めて、穿たれる痛みと、相反する快楽を往き来する。闇に咲く赫の意識と、情欲匂い立つ身体の別がつかなくなるほど揺さぶられて。
 声にならない声で啼き、熱い肉を締め上げて果てた。腹の上も、中も白濁した欲にまみれながら、肩で息をする。
「・・・無理をさせたな」
 胸に抱き、髪を撫でつける手はやはり優しく、温かい。
「もしかしなくても、意識飛んでた?」
「そう・・・だな。どこか、別なところを見ているようだった」
 腕の中で、那岐は微かに笑った。
「当たらずも遠からず・・・だね。なんか、意識だけ違う次元に行ってたみたい」
「違う次元?」
「・・・うん。忍人はいたけど、入れ物だけだった」
 端的な言葉だったが、意味は通じたらしく抱き込む腕の力が強くなった。自然に熱も匂いも近くなる。鼓動もまた、例外ではない。
「曼珠沙華しかない、まるで血の海みたいな闇の中に忍人がいて・・・だけど、光だけはそこにあって。身体は凍りつきそうに冷たくて、何にも生まれそうにないぼんやりした光の中から音がするんだ。そう・・・この音だったよ。この音が風もない場所で曼珠沙華を吹き飛ばして、祓ってくれたんだ」
「・・・そうか」
 夢とも幻ともつかない情景。けれど、それはいつか見た現実に違いないのだろう。でなければ、ここにある鼓動ひとつを、なにゆえこれほど得難く思うのか。これほど愛おしく思うというのか。
「馬鹿なこと言うな、とか怒らないの」
「君の力は人智を超えている。他の者には見えない、感じられない何かがあって不思議はない。ならば、どんなことであれ、それは真実なのだろう」
「・・・ありがと」
 人は、信じがたい現実を前にした時、それが大きなものであるほど弱くなる。生死をともなうこととなれば、なおさらだ。けれど、忍人は。
「礼を言われるようなことを口にした覚えはないが」
「いいんだよ。分かんないなら、分かんないままで」
 頬をすりつけ、拍動を耳で、肌で感じ取る。彼がここに在ることを。器だけでなく、伝承の中だけでなく、確かにここに在ることを。
 かつて、ここではないどこかで失ったはずの、魂の形に寄り添える奇跡は。
「・・・ここから、始まるんだ・・・」




Fin