鬼 伝 説



 足音が、近付いてくる。人の姿をした死神の使いが、ひとつ、またひとつ。
急ごしらえに張り巡らせた鬼道の結界は、時間稼ぎにしかなりそうにない。
けれど、それでも良かった。敵の手にかかるくらいなら、最期くらい静かな
眠りが与えられてもいいだろう。それだけの働きを忍人はしてきたはずで。
腕の中で目を閉じたその顔が青く白く見えるのは、決して木々の陰りゆえで
なく。かつて、この肌に甘い漣を立てた指もまた、氷のごとき冷たさだった。
「・・・逃げてくれ・・・・・」
 苦しい息の下、薄く目を開けて忍人は言った。けれど、那岐は首を振る。
彼らしい望みだ。命尽きる前に、自分が逃げおおせる姿を見届けて旅立つ
つもりなのだろう、ということは分かっていたのだけれど。分かっていたから
聞いてやれなかった。この手で救えない魂があるなら、消えゆく瞬間だけは
その存在だけは覚えていたかったから。そのために落とす命なら、意味もあ
る。生まれてきてからずっと探してきた、意味を知って自分も黄泉へ往ける。
「・・・巻き添えになることは、ないんだ」
「分かってるよ。この国のために生きてくれ、って言いたいんだろ」
 それが価値あるものならば、納得もできたのだろうけれど。自分がいなくと
も国は存続するのだ。今、ここで身の危険に晒されているのが何よりの証だ。
この国が必要としているのは千尋であって、自分ではない。排斥、という淘汰。
だから、巻き込まれたのはむしろ忍人の方だ。敵は、決して塀の外にだけ存在
するわけではない。塀の中の敵こそが、那岐の存在を消したがっている。忍人
にとっての破魂刀がそうであったように。だからこそ、見捨てることはできない。

「・・・でもね。それだけじゃ、ないよ。ここにいるのは」
 ざわざわ ざわざわ、と嫌な気配が辺りに満ちてくる。結界がまたひとつ解かれて近付
いてきたに違いなかった。けれど、まだここまでは来れない。だから、言える。
「僕が、望んだから。忍人がしてきたように、僕も自分で選んだんだ」
 もう、返る声もない。おぼろな瞳が見ているだけだ。終わりが近いのだろう。
「忌み子なら、それらしい終わり方をしようって。それは、記憶に残る」
 いくら消そうとしても、良からぬ噂や口伝ほど人は忘れない。いくら消し去った
つもりでいても、どこからか権力のほころびを見つけ、真実を暴こうとする連中
が出てくるはずだ。人とはそういう生き物で、だからこそ自分は忌み子だった。
「それなら、一緒にいた忍人も破魂刀も、忘れられることはないんだ」
生太刀という真名と価値を戦乱の中で忘れ去られ、血生臭い破魂刀として
存在してきた不幸も。その力を得るために自らの魂を糧として捧げた忍人の
ことも。魂が消えてしまえば、新たな身体を得て輪廻へ戻ることも叶わない。
忍人という名が、葛城忍人という生が、この魂の最期になる。ならば、自分が
引き継いでいこう。それが忌しい汚名であったとしても。たとえ輪廻の中へ組
み込まれることになったとしても、この真実の想いに悔いる理由はないから。
「忍人の骸だけは、僕の自由にさせてね?」
「・・・好きに、すると・・・いい・・・・・・」
 またひとつ、結界が解かれるのが分かった。気配は、もうすぐそこまできて
いる。反して、忍人の息吹は遠ざかる。抱えた首筋の脈が弱くなっていくのを
指先で、浅く途切れがちになってゆく呼吸を唇で感じながら。最後の最後まで
熱を残す、鼓動を探して那岐は小刀を取り出した。そして、淡く優しく微笑む。
「・・・もう、痛くないからいいよね?」
 痛みからも苦しみからも解放され、ただ眠るように目を閉じた忍人の鼓動
の真上を十字に開くと辺りに朱が散った。その血だまりの中へ顔を埋めると、
臓腑はまだ温かな熱を伝えてきた。そうして、白磁の頬が染まるのもかまわず
生きていた証に口づけた刹那、最後の結界が弾けて無遠慮な足音が武器を
手に手に、その場へなだれ込んできた。自分ばかりでなく、身を賭して尽くして
きた忍人さえも、余命わずかと見るや、巻き込んだ醜悪さに那岐は対峙する。
「・・・お、鬼だ・・・・・!!」
 鮮血にまみれ、臓腑に顔を埋める姿は彼らからすれば人肉を喰らう化生
でしかないのだろう。それで、良かった。なまじ整った顔立ちが、微笑みが、
なお畏怖させる。金の髪を持つ、眼前の存在が自分達とは違う生き物だと。
「鬼だったら、どうするつもり?」
「こ・・・殺せ!!そうだ、ここにいるのは王家に紛れこんだ鬼だ!」
「こいつは人ではない!!見ろ、それが証拠に人の肉を喰らっておるわ!!」
 那岐は目を閉じた。腕の中に在る、忍人の骸だけをしっかり胸に抱いて。
暗闇に、朱の花々が美しく咲く。いつか、訪れる未来。別の身体に生まれた
時代、今ここで尽きる命は意味を持っているだろう。その贄として扱われる
であろう忍人の存在も、また同じく。金の髪を持ち、鬼道を操るこの姿が人
でなく、鬼そのものとして語り継がれる時・・・消えた魂もまた、伝説になる。



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