青々とした空の下、突き抜ける陽射しを称えるように蝉が鳴く。地表から立ち上る熱に焦がれ果てるまでの僅かな時を生き急ぐ、声・・・声、声。他に音はない。ただ、一対の眼光がある。前方の的を見据える無がある。そこには、暑さを際立たせる蝉の声さえ届いてはいないようだった。
やがて矢が放たれ、的を射るまでがどれほど長かったか、は。扉一枚隔てた弓道場の外で気配を殺していいた2人でなければ分からない。無論、集中を切らせぬよう、中にいる布都彦にそれを気取らせなかった点は年長者の矜持である。
「はあぁ・・・息すんの、忘れそうだったぜ」
「なら、いっそ忘れてくれても良かったが」
カラリ、と戸口に手をかけながらの軽口に気付き、弓を下ろした布都彦はそこにいた兄・羽張彦の姿に破顔したものの、ほぼ同時に表情を引き締め、頭を下げた。背後に見知らぬ男が立っていたからである。年の頃は兄より幾分若いが、生徒には見えない。学園の関係者とは限らないが、自然とそうさせる硬質な印象だった。
「よ、元気そうだな。この暑い中、練習を欠かさねえのも相変わらずだし」
「はい、お陰様で怪我もなく過ごせておりますので。腕を鈍らせぬよう、精進できます」
そうして布都彦は、背後にいた男に目を移した。
「初めてお目にかかります。羽張彦の弟で、布都彦と申します」
「・・・兄弟だと言うのに似ていないな。いや、君の方がよほどしっかりしている、という意味だ」
「おい、忍人。それは誉めてんのか、けなしてんのか」
げんなりした様子で羽張彦が口にした名前に、布都彦は聞き覚えがあった。
「では、貴方は・・・葛城様ですか。兄がいつもお世話になっております」
葛城とは、大伴と並んで葦原本家に重用される名家である。同じように関わってはいても、正直なところ自分達兄弟とは格が違うと言って差し支えない。だが、幸いにして忍人はそうしたところに拘る質ではないようだった。
「時に迷惑するのは確かだが、世話は焼いていない。どちらにせよ、君が恐縮することはない」
「だよな。だいたい、ここで偉ぶるようなヤツなら、わざわざ連れてこねえよ」
と、羽張彦は板の間にどっかり胡坐をかいた。さすがに道場に座布団はないので、忍人も同様である。一方、年長者2人の手前、正座しようとする布都彦をなだめたあたりで話は始まった。
「それにしても、今日はお揃いでいかがされたのですか」
「ああ、実は近いうちコイツの教育実習があるんでな。男子部の学園長にもご挨拶ってわけだ」
「そういうことだ。いずれ、よろしく頼む」
「そんな、こちらこそお世話になります」
「・・・で、だ。ついでに風早とも落ちあって、と思ったら今日に限って研修行ってやがるし」
「お前が事前に連絡を入れておかないから、日にちが合わなかったのだろう」
既に女子部の教師である羽張彦であるが、生来の大らかさは良くも悪しくも健在で年下であり後輩となる忍人にも諌められているようだった。
「ま、それはいいんだが・・・あいつの研修先、どうも日帰りできなさそう・・・なんだが」
「はい。戸締りには気をつけます」
「いや、そうじゃなくてだな・・・風早がいないってことは、那岐と・・・その、2人だけなわけだし・・・」
珍しく歯切れの悪い羽張彦を、布都彦は不思議そうに見つめている。
「兄上?ご心配はありがたいのですが、もう留守居できぬほどの子供ではありませんよ」
「・・・子供ではないから余計な口を挟んでいる、と言ったらどうだ」
明後日の方向を見やりながら、忍人が呟いた。だが、頭を抱えているのは羽張彦だけである。
「私は間借りしているだけですから、勝手にお招きするのもよろしくないですし」
「あ、いや・・・泊まらせてくれとか頼んでるわけじゃなくてだな・・・」
「これまでにも、似たようなことはあったのだろう?」
「仰る通りです。私も那岐も、2人で過ごすことには慣れています」
「・・・質問を変えよう。葦原の本家と君の家が、遠からず縁組する話については知っているか?」
すれ違ったままの会話に業を煮やして、忍人が主導権を取った。縁組、というのはすなわち葦原の次期当主と羽張彦との婚礼のことである。ただ、影響の大きさゆえ非公式とされているのも確かで。
「・・・存じております。先日、妹君から伺いました」
「うっわ〜・・・思いっきり、緘口令の盲点じゃねえかよ」
「脇が甘いのは確かだが、君も関係者だからな。当主にも、ご容赦いただける範囲だろう」
忍人は軽く溜息をつき、話を続けた。
「だが、それを快く思わない向きもある。俺は能力の高さと家柄とは無関係だと知っているし、然るべきだと考えているが・・・家柄しか頼るものがない愚かな者にとっては、この婚礼は脅威だろう。他意がなくとも、大伴や葛城より大きな力を持つことになるのは事実だからな」
「そう・・・ですね」
「であれば、話が進むにつれ不穏な動きも多くなってくるだろう。いや、既に幾つか火種らしきものもある。おそらく、風早は伏せているだろうが・・・先日の一件も無関係とは言い切れない」
「・・・おい、忍人」
気が進まない様子の羽張彦を制して、忍人は口火を切った。
「率直に聞こう。君は、葦原の末子・・・那岐をどう思っている?」
「それは・・・兄上の御婚礼と関係するからですか」
「表面的には容疑者の不可解な死によって解決した・・・いや、解決させた事件だが、糸を引いていた者はいる。同じような、あるいはもっと手の込んだ凶悪な事件が降りかからないとは言えない・・・那岐が葦原の血を引いている以上、君が羽張彦の弟である以上。那岐と深く関わるほどに危険は増す。その意味が分かっていての行動であれば、ということだ」
布都彦は黙っている。だが、迷いがないことは瞳の強さで見てとれた。羽張彦は言う。
「いいか、布都彦。俺のせいでお前に危ない真似させたくない、ってのは確かにある。けどよ、お前がそういうこと知らないのと、知ってるのとでは話が変わってくる。だからそこんとこ、聞かせてくれ」
「今日会ったばかりでも、君が計算ずくで行動していないのは分かる。互いに無理はないんだな?」
「・・・私は、葦原の人間だから那岐と関わっているのではありません。ただ、愛しいのです。それに、理不尽な理由で身の上に危険が及ぶことは漫然と生きていても有り得る話です。那岐は自分だけで被ろうとするでしょうが、知らぬ振りをせよと言う方が、私にはよほど無理な話です」
「・・・そっか」
ふわり、と髪が掻き回された。羽張彦が見せる、昔からの仕草。傍からは子供扱いしているように見えても、布都彦は決してそれが嫌いではなかった。
「どっちかが無理してそばにいるとか、さ。そういうのじゃねえならいいんだ」
「葦原の血を引くとは言え、末子ともなれば実子を持つことなど生涯ないだろうからな」
「・・・おいおい。ここでそういうこと、言うかぁ」
「事実だろう。男色でも問題ないと伝えてやった方が、気持ちが楽になると俺は思うが」
さらりと口にした忍人の言葉を反芻して、みるみる布都彦の顔色が変わった。
「・・・どどど、どうしてそのようなことをご存知なのですかっ」
「おいこら、落ちつけ。風早経由だよ。ひとつ屋根に住んでりゃ、自然と分かるだろーが」
懸命に宥めている羽張彦を見て、忍人はひっそりと微笑む。
「・・・兄弟とは、良いものだな」
「んあ?忍人、何か言ったか?」
「・・・いや。そろそろ、鍛錬の邪魔をせぬよう、失礼した方が良いかと思っただけだ」
すい、と立ち上がった忍人に布都彦はまだ赤い顔のまま、慌てて一礼する。
「いつか、変わるかもしれない。その日のために。変えなければいけない」
ただ、そう言って忍人は歩き出す。ばたばたと追ってくる、羽張彦をも意に介さぬ様子で。
「お前、爆弾落とすだけ落として放置するなよな」
「言うべきことを言っただけだ」
弓道場に背を向けて、忍人は言った。
「今ひとり。那岐に対しては、風早が説くだろうしな」
「なんで分かるんだよ。風早は、イロイロあって那岐には複雑な立場なんだぞ」
「毎年、ヤツは家に来る。今年は一人ではないだろう」
ややあって、思い当たったらしい羽張彦に忍人はうなずく。
「夏の盛り。秋と春。律儀に、花と菓子を持って会いに来る」
会えるはずの、ない命に。これまでは、過去と向き合うために。この先は、未来のために。
FIN.