求めるほどに遠く



 静かな夜だった。けれど、意識は淡くまどろんでは現に戻ってくる。大会を終えた後でもあり、身体はそれなりに疲れているはずなのだが・・・と思いつつ心当たりはあって。床に就いたまま、布都彦は自室の壁を見た。
正しくは、壁ひとつ向こうで眠りについているであろう那岐を。ほんの数時間前、この腕に抱きしめた温もりを。
 互いの部屋は同じ大きさ、作りなので布団を敷く場所も似通ったものだ。それだけに、情景は手に取るように分かる。理屈に合わない感情のまま伸ばした腕に、もしも那岐が戸惑っているなら。思い出すと胸を締め付けられるような一対の翡翠もまた、こちらを見ているのだろう、と。
 身を横たえたまま深く息をついた時、気配がした。床についた那岐が、こちらを見つめ・・・ゆっくりと身を起こす。見えるはずのないそれが見え、息をつめていると那岐の手が2人を隔てる壁に触れ、突き抜けてきた。けれど、あり得ない状況を恐れるより早く、身体の自由は甘い痺れに封じられる。
「・・・那岐・・・」
 かすれた声に応えはなく、ただ影がかかる。のぞきこむ瞳は切なく潤んでいて、色香が匂い立つようだった。その、白い頬へ手を伸ばす。言葉なき唇なら、いっそ拒めぬようふさいでしまいたくて。なのに、指先が触れる瞬間、那岐は光になって散った。
「・・・え・・・?」
 視界には、見慣れた天井。部屋に薄日が差しこんでいるからこその・・・朝、を受け入れるまで数秒。まとわりつく甘い余韻は夢幻だと飲み込むまで、更に数秒。布都彦は茫然としていた。
「・・・あのさぁ」
 と、音を立てて襖が開く。廊下から覗いているのは混乱の諸因だ。けれど、不機嫌極まりない寝起き顔は美貌こそ損なわれていないものの、逆らい難い色香はさすがに感じられない。
「お前、どっか具合でも悪いわけ」
「・・・いや、そんなことは」
「そ?けど、疲れてんなら寝とけば?風早は早朝会議があるとか言って出てったし。別に具合悪くないんなら僕も出るけど」
 嫌な予感がして時計を見れば、八時近い。毎日の朝練を欠かさない早起きが身上の布都彦としては、あり得ない失態である。が、にもかかわらず上半身を起こしたまま固まっている様子を見て生理的な事情を察したらしく、那岐はそのまま「先に行くから」と姿を消した。
「・・・まさか、こんな」
 無意識下のこととはいえ、欲情したまま動けずにいるところを当人に目撃されようとは。信じたくない現実に、赤面を通り越して青くなる。状況はともかく、誰を想ってのことか那岐は気付いただろうか。複雑な感情を抱えつつ重い足取りで登校すると、始業時間を過ぎ閉門されていて守衛に遅刻を説明するおまけがついてきた。
 その、常ならぬ状況に少々自己嫌悪に陥っていると中庭から、かかる声がある。三年の名札をつけた2人組だが、見覚えはない。だが、先方にとってはそれも大した問題ではなさそうだった。
「なんだ、お前一人かよ」
「そうですが」
 今は本来、一限の授業中である。しかし当の2人は、遅刻してきた自分のように大きな荷物を持っていない。かと言って体調がすぐれぬ様子もまた、なかった。
「だから何だ、とか言いたそうじゃん」
「いえ・・・失礼ですが、どこかでお会いしましたか」
 と、2人は顔を見合わせた。そこに浮かんでいるのは、悪意はあってもおよそ品のない笑みである。
「つうか、あんなとこで・・・なあ?」
「ま、誰も見てねえと思ったんだろうけどよ」
 真意を読み取れず黙っていると、一人が弓を指差した。
「その、長ったらしいの。昨日も、持ってたよな。目立つからすぐ分かったぜ」
「・・・昨日?」
「ちゃーんと見えてたぜ、橋の上から。一緒に住んでるくせして外でも見境なくサカってんのな、お前」
「あ、あれはっ・・・!!」
 事の次第を飲み込み、顔色を変えた布都彦を見て、彼らはいっそう調子づいたようだった。
「見てるこっちが困っちまうよな、ああいうの」
「どうせだったら最後まで見てたかったんだけど、俺らも」
「違います、あれは」
「ヤりすぎて遅刻したんじゃねえの?動けねえぐらい可愛がってやったんだろ?」
「あ、だから一人で遅刻ってわけか。黙っててやるから、聞かせろよ」
 自分だけならともかく、那岐に話が及ぶとなると放ってはおけない・・・と布都彦は知らず、拳を握った。
「それは先輩方の誤解です。お見苦しかったかもしれませんが、昨日のことも感謝の気持ちが高じてああいう形になっただけで・・・遅刻したのは、自分の心がけが甘いからです。那岐とは関係ありません」
「・・・ふーん、拒否られちったぜ、一年に」
「言えねえようなことやってんじゃねえのぉ?」
 埒のあかない会話に苛立っていると、長い影が伸びてきた。
「こんなところで時間を潰してるということは遅刻組ですか?」
 二メートル弱の影が手にしているのは、竹箒と塵取りである。
「確かに授業中に入っていくのは気まずいですからね。チャイムが鳴るまで、中庭の掃除を手伝ってもらえませんか?ここのところ、落ち葉がすごくて掃いても掃いてもきりがなくて。人手があると助かるんです」
 剣呑な空気を察してか否か。のんびりした口調で風早は言うと、2人組はそれには答えず姿を消した。
「・・・せっかく落ち葉掃除が楽になると思ったんですが。逃げられましたね」
 大して当てにもしていない様子で落ち葉を集める風早に、布都彦は頭を下げる。
「おや、どうかしましたか?」
「いえ、遅刻もですが・・・その、困っているところを助けていただいたので」
「ああ、なるほど。そんなつもりはなかったんですが、職員室で話題になることが多い子達なのは確かですね」
 2人が使う竹箒の間を縫うように、役目を終えた葉が、ゆったりと絶え間なく落ちてくる。終わりは見えない。
「何があったか、お聞きにならないんですか」
 沈黙に耐えきれず布都彦が口を開いても、風早は顔を上げない。
「聞いて欲しいなら、伺いますよ。でも、ある程度の年齢になれば自分で解決できること、できないことを見極めるのも大事なことです。それをさせずに踏み込む方もおられますが、個人的にはどうかと思うので」
「・・・はい」
 布都彦は頷いた。風早が、人と人の距離感を指していると分かったからだ。落葉ひとつにしても、枝そのものを落としてしまえば終わりにできる。けれど、舞い落ちる葉を邪魔に思うのは人の身勝手に過ぎず。樹木からすれば枝を奪われるのは迷惑な話でしかないのだろう。
「言うは易し、行うは難し、ですね。でも、貴方はそれを実践されている」
「・・・自分では良く分かりませんが、君たちからすれば俺もそれなりに大人の部類なんでしょうね」
 秋が足早に立ち去ろうとする、朝。そんな風早の苦笑と共にチャイムが鳴り、布都彦は教室へ向かって行く。何気ない日常が、それでも冬に近付いていることを暦は告げているけれど。心の内に忍び寄る、冬の風景は誰にも見えない。見せない。気付かせは、しない。大人の、仮面の前に。


Fin