病んでゆく孤独


 開け放たれた窓から、遠く喧騒が聞こえる。授業には違いないが、ここまで届く声の大きさからいって対抗式の球技でもやっているのだろう。であれば、ケガをした生徒がこの医務室へやってきてもおかしくはないのだが、今ここにいる人物は手当目的ではなく、生徒ですらなくて。
「お茶でも淹れましょうか」
 秋風と校庭からの喧騒をガラス窓で遮って、柊は言った。
「今日は外出の予定もありませんし、ゆっくりお話できますからね」
「いえ、どうぞお構いなく」
 返す言葉も空々しい相手は、風早である。大学時代からの知己ではあるが、互いに腹に一物あったためか格別に親しく交流したわけではない。それがこうして同じ職場で働いているのだから、因果な話ではある。
「ですが、こうして顔を出したからには何がしかの用件があったのでしょう?」
「そうですね。おそらくあなたにも学年主任あたりから話があったと思いますが」
 と、そこで柊は得心がいったとばかりに頷く。尤もそれは彼特有のポーズで、実のところは顔を出した時点でとうに察していたのだろう。つまりは、それが分かる程度の付き合いではあったということである。
「特定の生徒にばかり医務室を占有させるのはいかがなものか、と。ついては生徒の健康状態を正しく把握しているのか、と確認も含めたご注意をいただきました。心得ておきます、とご返答差し上げたのですが・・・その話しぶりからすると、君にもご指摘あったようですね」
「欠席している授業が少なくなかったもので。一応、保護者代わりですから」
「保護者・・・ああ、従弟に当たるのでしたね。血縁はともかく、戸籍の上では」
 さらり、と口にした言葉に風早は眉をひそめる。その事実を知る者は限られているからだ。「意外、ですか?いえ、何かの折に羽張彦が君のことを『葦原の分家に来た』と話していたものですから。その言い廻しからすれば、そこで生まれた、という意味にはならないでしょう?」
「そういうことになりますね」
 仮に葦原という古い家を樹にたとえるなら、それは気まぐれにしつらえた接ぎ木でしかないのだろう。けれど風早にとっては、心に深く根を張る傷で。今なお、胸の奥で毒を生む源であることに変わりはない。
「・・・話を戻しましょう。君がここへ来た理由については、現状を説明すべきでしょうから」
 そう言って柊は風早の正面に座った。
「まず、健康状態については私が見たところさほど憂慮すべき点はありません。入学当初は環境の変化もあってか疲れやすく体調を崩しがちだったようですが・・・昨今、こちらを利用しているのは別の目的あってのことですから。まあ、この年代の生徒であれば至極当然の欲求ですし、相談に乗るのも手ほどきをするのも、人生の先輩としてやぶさかではありません。ですが、この頃は少々度を過ぎていましてね・・・正直、手に余るようになってきてはいたのですよ」
「具体的には?」
「ええ・・・少し以前の話になりますが、所要が立てこんでいる日がありましてね。説明して納得してもらおうとしたのですが、聞きわけなく出て行こうとしないのです。それで少々邪険に追い出したところ、いつ誰が通りかかるともしれぬというのに、その扉にすがって泣きじゃくる始末で。放ってもおけないので耳をそばだてていると、『いれてくれ』と切れ切れに懇願していましてね。その日は、やむなく世話をしました。そう・・・人目に触れぬよう、机の下へ隠して。捨て猫でも拾った気分でしたよ。まあ、あれほど淫らな猫がいれば、の話ですが」
 風早は黙っている。そして、動じる様子もなかった。
「それで、いずれ君に尋ねてみたいと思ってはいたのです。客観的に見て、君のあの子への仕打ちはとても興味深いのでね・・・復讐、といったところですか」
「何故、そう思うんです?」
「ふふ・・・あれほど罪深い身体に仕立て上げたのは、君でしょう?私の元へ来た時、あの子は既に男を知っていた。抱かれることに慣れきっているのだと、すぐに分かりました。どんな羞恥を強いても、求めてくるのでね。でなければ所詮は排泄行為、自分で処理するだけで足りるはずでしょう?ところが、です。その机の下へ隠してやった日も飽きることなく私をしゃぶるので、幾度その喉を潤してやったかしれません。一人でも楽しめるように、と下の口へ細工しただけでは満足できなかったのでしょうね。人目もはばからず、『いれてくれ』とねだっていたのも、そちらの意味だったのでしょう」
「では、柊。あなたは、俺が敢えて堕としめたのだと思っているのですね。何のために?」
「さあ、確かな理由は存じません。ですが、結果をみる限りでは熟れてしまう前のいたいけな身体を嬲り、男を欲しがってやまぬ身体にしてから残酷に放り出したとしか思えませんね。自制もままならない若さにとって、それは生殺しですよ」
 大仰に溜息をついて、柊は目を閉じる。とても同情しているように見えない歪んだ口元は更に言った。
「たとえば私がここで突き放したとして、あの子に再び手を差し伸べるだけの慈悲はあるのですか?でなければ結果は見えています。身体の欲求に抗えず、また別の相手を求めるまでですよ。そうなればいっそう厄介になることでしょう・・・ああ、そういえば」
「なんですか?」
「先頃やって来た、異国の少年がいましたね。もしや、そのつもりであてがったのですか?」
 と、途端に室内の空気が変わった。一言も発することなく怒りを露にした風早を見て、さすがの柊も失言に気付いたらしく、肩をすくめてみせる。
「これは、失礼。邪推・・・でしたか」
「彼は、理事長の口利きでここへ来たのです。仲が良いのは確かなようですし、メリットもなくはない。ですが、目的は違う。あなたの言い様は那岐はもとより、理事長に対しても侮辱の域ですよ」
「そうですね、言葉が過ぎたようです。だからといってそんな怖い顔で睨まないでください。震えあがってしまうではありませんか」
「見え透いた冗談ですね。笑えませんよ」
 とはいえ、少しは表情を違えているのも確かである。それを感じ取って、柊は続けた。
「それで、この先どうすればお気に召すのでしょう。君から叱られたのでもう相手はできない、と正直に申し伝えましょうか」
「それは無用です。俺から話を通すことはあの子も承知していますから」
「では、当人が自制するということですね・・・かわいそうに。薬の切れた中毒者のごとく、のたうち回って苦しんだ果てに誰かれなく腰を振って啼く、淫らな姿が目に見えるようです。葦原といえば、土地の名士。良くも悪しくも政界、財界、企業・・・あらゆる方面に影響力のある、格式高い名家だというのに・・・それでもあの家に対する復讐ではない・・・と?」
 風早は答えない。ただ、用件は済んだとばかりに立ち上がり、柊を見た。
「ともかく、学生である以上は授業を優先させなければなりません。その先については意志不明瞭なほどの子供でもないのですし、自分で決めるでしょう。もちろん、生命の危険に晒されるようなことからは守ってやらなければなりませんが」
「・・・教科書的な発言ですね。いいでしょう、君がそういう方針ならぱ私もまた教員としての務めを全うすれば良いだけのこと。この話は、ここで終わりです」
 それを幕切れに風早は外へ出た。中庭に吹く風からは冬の匂いがする。今日は暦よりも冷え込んでいるようだ、と端的に思う。けれど、木々の葉はまだ一色でもなくて。
「・・・本当に、ね」
 いずれ同じ色味に変わる、植物のようであれるなら。心を、憎しみという感情ひとつに染めることができたなら。
「どんなにか、楽だったのにね・・・」
 けれど、その呟きは厳しい季節の訪れの中へ紛れて消えて。風早の面差しに再び浮かびあがってくることは、なかった。



Fin