痛みの気配


 翌日、風早は予想通りの行動に出た。遠夜を連れてきたのは勿論のこと、本人と面識があるからという理由で事実上の世話係にも指名したのである。誰かが負うことでもあるし、それ自体がどう、ということはないが教室をはじめ校内のいたるところから突き刺さってくる視線はさすがに痛い。だが、遠夜本人は那岐に会えたことを喜んでいるだけで、周囲の反応などまるで気にしていなかった。加えて、民族性ゆえか個性ゆえか、やけに人懐こい笑みを向けてくる。アシュヴィンから聞いた通りではあるが、そうした純粋な好意はどうにも落ち着かない。尤も、それは遠夜の側に問題があるのではなく那岐が慣れていないから、というのが正直なところだ。
「・・・まあ、そういうの僕だけじゃないと思うけど」
 それが日本人の特性だろう、と斜め後ろの大きな影を確かめながら、つぶやく。校内の使用頻度の高そうなところ、重要なところを選んで案内したものの不慣れなことに変わりはないし、言葉も単語繋がりでしかないのだから、と。はぐれぬよう振り返りつつ気遣い歩くのが、遠夜には嬉しいらしかった。
「・・・次、どこ?」
「うん、幼なじみがいるとこ。学年は僕とも遠夜とも違うんだけど、せっかくだから紹介しようと思って」
「・・・・・オサ・・・なに?」
 どうやら、耳慣れぬ言葉だったようだ。そこで少し考えて、言葉を足してやる。
「幼なじみ・・・小さい時から知ってる子・・・かな」
 にこにこ頷くところを見ると、今度は通じたらしい。
「ここだよ。いつもここで鍛錬・・・あ、鍛錬は難しいかな・・・ええと、レッスンしてるんだ」
 扉を開くと、的を射る音が五感に触れた。張り詰めた気の源へ目を転じれば、奥で弓を下ろす布都彦がいる。その瞳はまだ前方を捉えており、2人からは空間と同化した横顔しか見えない。
「布都彦」
 一呼吸おいて戸口で声をかけると、ようやく気付き、破顔してこちらへやって来るのが彼らしかった。
「すまない、待たせたか?」
「今来たとこだよ。あ、裸足にならなくてもいい?」
 寒がりな那岐らしい質問だが、それは鍛錬の際、布都彦が必ず素足になると知ってのことだった。
「見学なら靴を脱ぐだけで差し支えないが、板の間だからな。滑らないよう気をつけてくれ」
 すると、黙って様子を見ていた遠夜が布都彦の出で立ちを見て、自ら素足になった。
「・・・やってみたいの?」
 那岐が問うと、こくこくと頷く。薬草を集める都合もあって森の近くで暮らしていたと聞くから、種類は違っていても武具としての弓には抵抗がないのだろう。
「那岐、は?」
「僕はいい。結構体力いるの、知ってるから」
 中に入り互いを紹介すると、遠夜は布都彦が差し出した手の意味が分からず、また那岐を見る。その仕草からは、体躯に似合わぬ子供の匂い、温厚な大型動物の気配がした。
「これは、握手。よろしく、って気持ちをボディランゲージで伝える習慣なんだ」
 納得し、差し出された手を握り返して布都彦は言う。
「身体もそうだが、手も大きいな。弓を使えば、腕の力だけでもかなり飛ぶだろう」
「・・・ってことは、それだけじゃないわけ?」
「そうだ。弓道は、的を狙ったからといって当たるものではない」
 これには、遠夜だけでなく那岐も首を傾げた。
「意味、分かんないんだけど」
「・・・ああ、そうかもしれない。剣道にしても柔道にしても倒す相手がいて、結果がはっきり見えるからな。だが、弓道は己の心に向けて射る。それが的に現れるだけの話だ。だから明確な敵は、いない。敢えて言うなら、自分の中に在る迷いや未熟さこそが敵だな」
 遠夜は袖を引いたが、那岐もまた説明できない。布都彦が言っているのは点数を競う、というより心の在り様・・・つまりは観念の問題だ。それは分かる。けれど、遠夜の生まれ育った環境からすれば、弓を使う目的は武具や道具といった実質的なものだろう。
「うーん、困ったな。でも、布都彦に教えてもらって実際にやってみるのが早いと思うよ」
「そうだな。習うより慣れろ、だ」
 布都彦が言うと、遠夜は立ち位置から構えにいたるまで素直に従って、頷きを繰り返している。専門用語もあるにはあるが、直に指示しているせいか困っている様子はない。あるいは、種類や目的はともかく弓そのものを扱った経験がそれなりにあるのかもしれなかった。
 一方、那岐はといえば手持ち無沙汰である。かと言って弓を引く気にはならず辺りを見回していると、備品脇にポスターが貼られていた。地区大会の告知である。ここに所属している現役部員が布都彦一人ということからすれば無意味には違いないが、これもモチベーションの問題なのだろう。事実、背後では矢を引く音がする。布都彦が手本を見せ、手ほどきを受けて遠夜が続く。的を捉えているのは布都彦だが、外れているとはいえ遠夜の勢いも悪くない。しばらくそうして2人を見ていると、少しなら目を離しても問題ないと判断したのだろう、布都彦がやって来た。
「どうした、興味が湧いたか?」
「見るぶんにはね。・・・で、コレ。布都彦も出るの?」
 指差したポスターを見て、頷きながらも零れるのは苦笑いである。
「なにしろ、ここでは自分がどれほどのものか分からないから・・・力試しといったところだな」
「何言ってんの。去年、どっかの大会の中学生の部で優勝してるくせに。今回も候補の一人なんだろ」
「確かに、運あって去年は良い結果だったが・・・なぜ、知っている?話した覚えはないんだが」
 布都彦が問うと、那岐はぷい、と横を向いた。
「そこで突っ込むなよ、風早経由。なんか、羽張彦があちこちでさんざん自慢してたんだってさ」
「そ、そうか」
 年の離れた兄である羽張彦は、女子部で体育教諭として働いている。風早とも面識はあるし、女子部と合同での行事もないわけではないから、そうした形で伝わっていても不思議はない。だが、自分の知らないところでそうして広まっているとは、何やら気恥かしい気がした。
「だから、さ。そういうの聞いたらどんなのかな、って思うし。ま、試しにやってみたら僕には全然向いてなかったけど」
「・・・え?」
「その大会、見てなくて話聞いただけだし。けど、今年のって・・・もう日にちがないのな」
「ああ、次の日曜だ。体調管理も含めて、気が抜けないな」
 そうして遠夜のそばへ戻ろうとした布都彦は、那岐がポスターの右隅を見ているのに気付いた。そこには関係者でもなければ二の足を踏む、不便極まりない交通アクセスが示されている。環境だけは素晴らしく良い会場だが、車でもなければ正直とても行く気にはなれないだろう。まして、早起きが苦手な那岐にとっては。・・・けれど、もしも。もしも、気まぐれの虫が動くことがあるなら。息苦しくなるほど緊張感で張り詰めたあの空間に、自分を見つめるこの瞳があったなら、と。そんな絵空事が脳裏をよぎるのに。
「ま、頑張ってよね」
 それを知ってか知らずか、脇をすり抜けた那岐に『来るのか』、とは問えなくて。身体のどこかで形なきものが軋む。まだ充分でない言葉を補おうとする遠夜のように、瞳の中でさえ感情を交わせない自分こそがその理由なのだとは、気付きたくなくて。結局のところ、それは言葉という形を成さなかった。


Fin