夜 闇



 夜の帳が降りると、季節の移ろいを確かに感じる。窓から差し入ってくる秋風も、もはや心地よいものではなく僅かながら肌を刺すようで。遠からず、この街にも冬が来る。布都彦にとっては、ここへ来て初めての冬だが、実家とも大差ないと聞いている。ただ、寒さに弱い者にすればやはり堪える季節ではあるのだろう。
「那岐?」
 灯りが漏れているのを幸い、様子を伺うと気だるげな声が返ってきた。だが、襖を開けば本を読んでいて風早から聞いたほど具合が悪そうには見えない。
「休んでいなくても、いいのか」
「まあね。もらったハーブが効いたのかな、って。それで、どんなのくれたのか、ちょっと調べてたとこ」
 かざした背表紙からは、確かに植物の効能について記したものだと知れる。幼い頃から病気がちだった那岐は、元来そういった分野に詳しい。と、なれば手渡した相手はそれ以上ということだろう。
「医務室でもらったのか?」
「・・・違うよ。今日、理事長室へ案内した留学生・・・転入生、になるのかな。遠夜っていうんだけど
、なんか自分の国でそういうの扱ってたらしくて。お礼代わりに風早経由でくれたんだよね」
「ああ、それでか」
 午後、窓から見えた三つの影。その中に那岐がいた理由を知って、布都彦は安堵する。それは授業中の出来事だから、というだけでなくクラスメイトから聞かされた良からぬ噂のせいでもあった。


『こういうの、黙ってた方がいいかも・・・だけど』
 入学以来、親しくなった相手である。だが、口の滑りは常ならず、重く。
『部の先輩から聞いた話だし、どっから出たのかも分かんねぇのな。ほら、ウチ女子部と離れてて男子校みたいなとこあるし。あいつ目立つし、狙ってんたけど従兄だかで先生と暮らしてるし、やべぇからって諦めた奴も多いらしくて。けど、お前が同居するようになった分、やっかみっつーの?そういう、あったみたいで。だからデマとか、そういうのだとは思うんだけど、さ』
 回りくどい口調に、気遣いが見え隠れする。それを感じて黙っていると、彼は周囲には聞こえぬよう、声を落として続けた。
『・・・医務室、結構使ってるらしいじゃん?けど、身体弱いからってんじゃなく、入り浸ってるって話なわけよ。で、なんかさぁ・・・イロイロ、聞こえてくるらしくて・・・誰が聞いたんだ、って話になると怪しくなってくるんだけど。どっちにしても、そういう話が出回ってるのって・・・やばくね?』


「・・・布都彦?」
 眼前の那岐が、心ここにあらずの様子をいぶかしんでいる。今の今まで、話しかけられているのは分かっていたが耳には入っていなかった。それを気取られたのだろう。
「お前こそ、どっか具合悪いんじゃないの。ホントに連れてって大丈夫?」
「連れてくる?」
「・・・さては、聞いてなかったんだろ。だから、たぶん明日から二年の教室にも来るんだよ。その、ホントだったら三年の扱いになる遠夜って転入生が選択科目の授業受けに。で、放課後あちこち案内するなら弓道部も悪くないかなって」
「ああ、そういうことなら協力する。なんなら一日体験してもらっても良いくらいだ」
 男子の弓道部には、名前だけの顧問しかいない。指導はもとより、練習を覗きに来ることさえ稀なのだからお飾りと言ってもいいだろう。よって部員も集まらずかろうじていた三年が今夏で引退しため、今となっては練習場も布都彦一人の貸し切り状態である。正直なところ、見学は大歓迎だった。
「まだ話らしい話してないし、興味あるかどうか分かんないけど。見たとこガタイは良かったからね・・・っても、風早よりは小さいのかな」
 那岐はどの程度違っていたか思い出している様子だったが、いずれにせよ大柄である。ぐん、と見上げるような相手と人目を引きながら連れだって来るのかと思うと、少々コンプレックスがある身としては面白くないのが本音である。だからといってそれを口にすれば、いっそう鳩尾に秋風が吹くというもので。そっと、本音は飲み込む。
「案内・・・というのは、誰かに頼まれてのことなのか?」
「そういうわけじゃないけど、ほぼ確実。明日は日本史の授業があるし、ってことは風早が連れて来ないわけないし。来たら来たで、はいよろしく、ってのが目に見えてるだろ。実際、さっきそれっぽいこと言われたし」
 大仰な溜息をついてはいるが、口ほどには嫌がっていないはずだ。困っている相手を放っておかない面倒見の良さがあるのは、布都彦も知っている。そして、多くの場合それで終わらないことも。しかも、当人に相手を増長させる自覚がないときているから、いっそう始末が悪いのだ。
「ま、ハーブとか詳しそうだし。話に詰まることはなさそうだから、いいけどね」
「・・・そうだな」
 それは布都彦にはついていけない分野である。だが、直に顔を合わせれば人となりが多少は見えるものだ。那岐にとって、害を為しかねない相手かどうかは分かるはずだ。かの、醜聞についてもそれと合わせ折を見て忠告すればいい、と。事の重大さを把握しかねている未熟さゆえ、お世辞にも愉快と言い難い話題をそうして先延ばしにしたのだった。
 けれど、布都彦は知らない。醜聞の真偽のほどを、その根底に在るものを。地の底から這い上がってくるような、毒々しい闇が間近に迫ってきていることなど。いまだ幼さを残す瞳に、歪んだ感情の行く末は死角でしかなかったのである。



Fin