理事長室へ二人を送り届けた後、授業に戻る気にもなれず帰宅した那岐は、そのまま自室で倒れ込み意識を手放した。次に物音に気付き目覚めた時には既に暗くなっていたから、相応の時間、眠っていたのだろう。
聞こえてくるのは、流水や引き戸の立てる日々の生活音である。源は台所のようだ。今日の支度は・・・そう、自分ではない。食欲などまるでないから、伝えておかなければ食材が無駄になってしまうだろう。
「悪いけど、今日の夕食・・・」
襖を開け、廊下をはさんですぐ向こうの台所にいたのは風早だった。と、なれば返ってくる言葉もお決まりで。
「少しは食べてくださいね」
「・・・いらないって、言ってる」
「大根が少し残ってます。それと、なめこが特売でした。おろしそばなら、あっさりしていて消化にも悪くないと思いますが」
「・・・・・食べる」
振り向いた口元が笑っている。してやったり、というところだろう。だから、この従兄は苦手なのだ。
「すぐできますけど、部屋で食べますか?」
「ここでいいよ」
この家の台所は平屋だけあって作りも古く、文字通り料理をするだけの場所なので元来食事には向かない。だが、手狭な流しを補う簡易テーブルの脇には椅子が三脚。廊下部分へ椅子を張り出し、臨時のダイニングスペースとしてカウンターバーのごとく使われている。これは、それまで居間代わりにしていた部屋を布都彦に提供したためでもあった。そこへ腰を下ろして待っていると、風早が支度の手を止めずに言う。
「今日、転入生を案内してくれたそうですね」
「・・・なんで知ってんの」
「俺も理事長に呼ばれたんですよ。日本の文化に興味のある生徒だから、って。書道の先生は出張中でしたし、日本史の担当でもいいだろうって感じでね。なんでも向こうには独自の文字がないらしくて、書き文字には特に熱心なんだそうです。まずは名前から始めるということなので、適当なんですけど当て字を教えておきました」
「理事長の知り合いとか聞いたけど、本当に勉強したがってるみたいだね」
「ええ。話す方は発音の問題もあってか今ひとつですが、素直で頭も良さそうです。しっかり面倒見てあげてくださいね」
さらりとした言葉の中、聞き捨てならないものを感じていると湯気立ち上る椀が前に置かれた。
「編入そのものは年齢からして三年の扱いになるんですけど、この時期ですからね。受験対策が中心の授業ではあの子にとって意味がないでしょうし。必須科目以外は二年のクラスで受けてもらおうか、ということになったんです。選択科目は、もともと一年とか二年の方が多いからちょうどいいか、と」
「・・・まさかと思うけど、僕と同じクラスになるわけ」
「案内してもらったせいか、君のことを気に入ってるみたいです。一緒に暮らしてると言ったら、具合が悪そうだったからと君あてにこんなものを預かってきました」
差し出されたのは、小さな包み。開いてみると、入っていたのは乾燥植物だった。個々の大きさからして、薬草というよりハーブティの類いだろう。
「これまで、こっちで言う民間療法めいたことを本国でやっていたようでね。それが縁で、アシュヴィンという付添い人の・・・正確には彼の父親の、ということになるようですが・・・日系企業とかかわることになったそうです。初めて会った相手にここまでしてくれるなんて、優しい子じゃないですか。こっちに来たばかりなんだし、親切にしてあげないと」
「・・・なんてったっけ、名前」
「トオヤ・・・暮れ時の山際の空の印象だったので、当て字では遠い夜、と書いてもらうことにしました・・・あ、早く食べてください。せっかくのそばが冷めてしまいます」
やむなく箸はつけたが、面倒なことになりそうな予感がした。遠夜本人がどう、というのではない。これまでのような気楽さが半減するように思えてならないのだ。それに、風早の言葉が追い打ちをかけた。
「あ、それとね。今からだと出席日数が確実に足りないので、卒業認定は受けられません。ですから来春からは留年という形をとって、君と同じ学年になります。あくまで本人が望めば、ですけどね」
「・・・はあ?じゃ、なんで敢えてこの時期なわけ」
「なんでも、薬草の原料が冬はほとんど取れなくて国にいても大して意味がないから、ってことらしいですよ。分かりやすくいえば季節労働者みたいなものかな。でもね、那岐。良い機会だから言っておきますけど、油断してると君にも留年の可能性はあるんですよ。遠夜と同学年ならともかく、布都彦と同じ学年になりたいですか?」
「・・・テストは受けてるし、成績もとやかく言われるような点数じゃないはずだけど」
「学力の話じゃありません。欠席してる授業が多すぎる、と他の先生方から苦情を聞いています。素行も問題になるんですよ。それに、医務室は君が私物化できる所じゃありません」
内心、ひやりとする。けれど風早はまた食事の支度に戻っていて、その背中から本意を伺えるものでもなく。
「・・・・・柊にも、俺から言ってはおきますが」
その言葉は、額面通りなのか・・・それとも、折々に疼く傷を開くものなのか。分からなかった。過去にこだわる兆しも見せない風早を問い質せぬままでいる、那岐には。・・・あの、夜の意味を。立ち消えになった関わりからつながる、心の内を。
Fin