陽の下の残酷



 那岐が目覚めたとき、柊はそこにいなかった。外出の予定そのものは本当だったらしく、ベッドサイドの椅子には替えのシーツと毛布が置かれている。好きに荒らしたのだから始末ぐらいはしておけ、ということなのだろう。
「・・・っ、う・・・・・」
 手足の自由こそ戻っていたが、節々が痛むことに変わりはない。それでも、腹の中の柊を残したまま戻るのは嫌で。けれど、汗と体液が染み込み、既に冷たくなっているベッドでの処理は自身の指さえ感覚を呼び覚ます。腿を伝い落ちる感覚に反応して、前から垂れ流す自身のそれが混じっては、流れた。
 あさましいことだ、と揶揄されるまでもない。身の内には、男の肉を食んで味わう欲がある。こればかりは、終わらせることができなかった。だから、その相手に柊を選んだのだ。彼には、後引く感情がない。危険を冒すのだから、という理由で強いられる悪趣味な嗜好にさえ目をつぶれば、処理の相手としては悪くなかった。
 そうして、痛む身体をなだめながらどうにか始末した部屋を抜け出し、壁伝いに歩けばほどなく中庭に出る。校庭とは建物をはさんで対極にあり、医務室側の建物と向かいのそれを結ぶ渡り廊下から抜けることができるが、樹の下は日当たりも良くないのでこの季節、まして授業中ならまず人もこない。身体を休めるには格好の場所だった。
「・・・・・大丈夫、だよな・・・・・」
 下草の柔らかさ、樹の幹に身を委ね傷を確かめる。拘束されていたのは二の腕の中ほどだったから、うっ血した痕も袖の中へ隠せるようだ。幸か不幸か、柊が好んでつける傷は心の内で目に見えるものは少ない。だから、共に暮らしていても奥手な布都彦は半年が過ぎた今もこの情事に気付かないでいる。
 立膝に顔を埋め、那岐は逡巡する。差し込む木漏れ日さえ、今は眩しい。陽の下を避けるように柊と関係するようになったのは、この春先からだ。入学してから最初の一年、彼については風早の旧知でしかなかった。胡散臭い相手ではあっても、那岐にとっては学校関係者の一人でしかなかったのだ。変化が起きたのは、より確かに言えば布都彦が同居するようになってからで・・・否。それは、ただのきっかけにすぎない。自分は、終わらせたかった。布都彦に知られることを恐れたわけではない。ただ、不確かでどこまで続いていくか知れない、風早との夜を終えたかったのだ。同居人が増えたから、というのが口実であり自分自身への言い訳だと分かっていても。けれど、葛藤した心に身体はついてこなかった。今でも、飢え渇いた心身をズタズタに引き裂く情事の後は風早の指を思い出す。思い出すほどに壊されたいと願い、柊の手の内に身を委ねた。風早に知れるなら、それでもいいとさえ思って。欲しいのでしょう、という言葉の前にはどんな恥辱も苦痛も黙殺されるのだと、知っていながら・・・・・。
 やがて、どれほど経ったのか、風向きが変わった。何者かの気配が間近に迫ったからだ。僅かに顔を上げて伺えば、見慣れぬ装束をまとった一対の足が見える。演劇部の衣装でもなさそうだ、と思っているとそれは躊躇いがちに近付いてきて、声が降る。
「ツ・・・ライ?」
 やむなく対峙した瞳は、深く澄んだ紫だった。浅黒い肌、淡い髪色をしてたどたどしい言葉を使う、大柄な少年である。母国の違いは明らかだが、気遣ってくれているのは確かなようだ。さしずめ、気分を悪くしてうずくまっているように見えたのだろう、と解して首を振る。しかし、それでも彼は退こうとしない。親しくなってから聞いたところによれば、この時の気の乱れが尋常でなかった、というのが理由らしいのだが。
「そんなところで何をしている?」
 別の声が割り込むに至って、ようやく彼は破顔した。そちらを伺えば、声の主もまた浅黒い肌をした青年である。ただし、こちらは髪も瞳も暗赤色で言葉も流暢だ。
「あんたの、連れ?」
 那岐の問いには、青年から大仰な溜息が返る。
「まあな。親父の代わりに理事長へ挨拶に来たら、いつの間にかいなくなって探していたところだ。ここの生徒だな。案内を頼もうか」
「・・・ダメ。なお、す」
「平気だってば。ちょっと休んでただけなんだから」
 と、立ち上がった身体は言葉とは裏腹にまだふらつき、危うい。
「それほど心配なら、案内の礼に手を貸してやれ。その方がコイツには有り難いようだ」
 そう言われて、不満顔ながらも従うあたり、不自由なのは抑揚の難しい発声だけのようだ。つまり言葉そのものは理解できている、ということだろう。
「・・・転入生?」
「広い意味での、留学だ。親父とここの理事長が旧知で、そういう話になった。日本と違い戸籍もないので不明瞭だが、年は18だと聞いている。ちょうどコイツの名前の響きと同じだな」
「ト、オヤ」
 にこ、と少年が微笑む。その表情は子供のように邪気がない。
「母国でも、数を表す言葉だそうだ。自ら名乗るとは、どうやらお前を気に入ったらしい」
「・・・そう。僕は、那岐。年はひとつ違うけどね」
 那岐としては、学年も違うのだし、もう関わることもないというつもりだったのだが。相手はひどく嬉しそうに、支える身を寄せてくる。
「・・・やれやれ、たった今教えてやっただろうが。こいつの国では、名前を名乗るのは気に入った相手に対してだけだ。受け入れられたと思ったら最後、遠慮などせんからな。覚悟しておくといい」
「あんたも、そうやって気に入れられたわけ?」
「・・・アシュヴィン」
 指差して那岐に伝えるところをみると、当の青年が好む好まざるにかかわらず、図星なのだろう。
 とにもかくにも、そうして理事長室へ歩いてゆく彼らは目についた。
「・・・なあ、あれってさ。一緒にいるの、お前と暮らしてるってゆー、二年のあいつじゃね?」
 授業中にもかかわらず、聞こえた声に布都彦は反応する。眼下の中庭を横切り、対面する校舎へと歩いてゆく、三つの影。窓際から伺えるその一つは、確かに那岐の背中だった。


Fin