目覚めれば、そこは日常だった。覚えのある部屋、距離感。何の問題もない様子に不愉快さを感じるのは、現実が見えているからだ。室内は既に暗くなっているが、元に戻った以上は報告を受けなければならないだろう。事件の経過と、行く末。時に結果を、時に判断を求められることは分かり切っている。それにしても、と。
「・・・うあぁ・・・起きたくない・・・」
いっそ、時間軸をゆがめたままでいようか・・・という逃避はさすがに選べず身じろいでいると、襖の向こうで気配がした。
「起きているか?」
とっさに布団をかぶる。布都彦だ・・・よりによって。無論、この家には風早と彼の二人しかいない。とは言え、少なくともいま二者択一なら風早の方が良かった、というのが正直なところだ。
「入るぞ」
案の定、答えを待たず襖は開いた。続いて、周囲が明るくなる。風早なら放置したであろうアクションも、布都彦はスルーしない。起きていなければ起きるまで待ち、長くかかりすぎるようなら起こすつもりなのだろう。逃げ場がない、とはこのことである。
どうしたものか、と息をつめていると枕元で陶器の音がした。どこか優しい、温かな匂いが隙間からふわり、忍んでくる。鼻孔をくすぐるそれで、想像がついた。風早の差し金だ。布都彦ならいつまでも放置できないと踏んで持って来させたのだろう。
目元だけのぞかせ、やっぱりねと那岐は匂いの正体を確かめた。そこにあったのは小さな土鍋である。察するに中身は薄切りの椎茸と卵、葱に生姜あたり。昔から寝込んだ後に出てきた、定番メニューに違いない。
「ああ、起きたのか」
一方、布都彦は平然としている。何事もなかったかのように。あれこれ思いめぐらせ、案じている方が馬鹿らしくなってくるほどだ。
「冷めないうちに食べるといい。いつも通り、とはいかないだろうが」
「・・・え?じゃあ、これって」
「私が作った。まあ、取り急ぎレシピは書いて下さったから、味はそれなりなはずだ」
じっと、手元の鍋を見る。確かに見た目はよろしくない。彩りも味のうち、と言ってばからない風早の作ではない。
「どこ行ったの、あいつ」
「いや、行き先までは。今も外出中だが、あと一時間ほどで戻るとさきほど連絡があった」
ざっと説明した後で、布都彦はまじまじと那岐を見た。
「その口のきき方からして、本当に元通りらしいな」
「そうみたいだね」
会話をさえぎるため、黙々と食べる。形がいびつなこともあって口当たりは今ひとつだが、まずくはない。
「しかし、元気になったのなら良かった」
「・・・何か、他に言いたいこととか・・・ないの」
ややあってから、手を止め言ってみる。自分や風早と違って、布都彦は嘘がつけない。良くも悪しくも。だからこそ、言動の端々にある違和感を積み重ねて、これほど早く元に戻れたのだろう、とも思う・・・けれども。
「何か、とは?」
「その・・・様子がおかしかった時のこと、とかさ。お前のこと、羽張彦と間違えてたわけだし」
無論、本当に聞きたい言葉はそこになかった。踏み出せない・・・布都彦があまりにいつも通りで。壊すのが、怖い。確かめたいのに・・・どう、思ったか。あるいは何とも思わなかったのか。
あの、夜。淫らで見境のない衝動を、剥き出しの自分を確かに見たはずなのに。
「・・・なつかしかった」
聞こえてきたのは、予想に反して穏やかな声だった。
「それに、嬉しかった。私には足りないものが多いから・・・兄上も少しは似ていたから、それでも力になれた気がして。あの頃、那岐がどんなだったか思い出せたし、どんなことを考えていたかも分かった。だから苦にはならなかった」
「お前、さ。そこは怒るとこだよ」
幼児退行している間のことは、夢のように曖昧で。気恥かしいこと、この上ない那岐は乱暴に片づけようとするけれど。
「だって、さ。人違いされて、手間暇かかる子守までしなきゃいけないんだよ。迷惑ったらないよ。僕なら、絶対お断りだね」
「それは、違う」
きっぱりと布都彦は言った。
「小さくても、那岐は那岐だった。迷惑なわけがない。それに目の前で誰かが困っていて、見過ごせるわけがない。逆の立場なら、お前も同じことをしたはずだ。まあ、小さな那岐は今より素直というか・・・分かりやすかった気はするが」
「・・・悪かったね」
ぷい、と那岐は横を向く。だって、かかわらない方がいいんだ。誰が相手だとしても。傷つけたり、奪い取ったり。心か、命か、立場や肩書、あるいは物理的な何か。その、違いだけで。打算と、裏切り。喪失、憎しみ、破戒。人とのかかわりは、いつも哀しい。だから、物心ついてから心の中には誰も入れなかった。その分、身体は欲しがって時に泣き狂ったけれど。それで、良かった。そうして生きていくことがい一番正しいと、思い続けてきた・・・のに。
「だが、結局はそういうものかもしれないな」
「なにが」
゛全部分かってしまったら、そこで終わってしまう。きっと、それ以上は近づかない。理由に気付かない。人と人が遠くなる・・・淋しいことだ。那岐とは、そんな風になりたくない」
言葉が、傷にしみた。痛みを覚えるほどに。これが毒々しい悪意なら、はねつけられるのに。差し伸べられるその手は、必死に守ってきた何かを終わらせようとする。日の当たる未知へと、連れ出そうとする。
「・・・もう、いらない」
食器を戻して、那岐は背を向けた。長引くほどに、嘘をつけなくなりそうで。
「そうだな、少し休んでおくといい。また、後で来る」
何も気付いていないらしい布都彦はそのまま食器を下げて出ていった。
「馬鹿だよ・・・」
もっと、自由に生きられるのに。そう、思わずにいられない。
やがて、そんな堂々巡りからどれほどたったのかまどろむ意識の端で声がした。響いてくるのは過去なのか、未来なのか。答はまた形にならないまま、声が現実のものだと気付いた。風早が、帰ってきたのだろう。
「ま、こっちのが楽は楽かな」
身を起こし、手早く布団を片づけて待っていると、ほどなく襖が開いた。
「計ったようなタイミングだね」
「長い付き合いですから」
風早はそう言って笑い、襖を引く。一応は人払いする気持ちでいるらしい、と考えていると。
「何から聞きたいですか」
単刀直入に斬り込んできた。無論、那岐も否やはなく。
「あの二人、どうなった?」
「盗難届の出ていたバイクで事故を起こしました。即死です」
那岐驚かなかった。風早が『二人』の意味を瞬時に理解したことも。内容にも。その事実に全く反応しない、自身の感情にも。ただ、気がかりなのは。
「あんたは、その事故に関係してるの」
「連絡を受けただけです。今回のことは、本家の・・・適性試験のようなものですから」
つまり、事故は事故ではない。けれど、風早はこの一件にかかわっていない。那岐は後者に安堵した。前者には、もはや何の感銘も受けない。それが葦原の家、だからだ。
「誰に対しての、何の試験なわけ」
「最も有力視されている君が葦原の影となるとして。君自身と、それをサポートする人員のセレクトです」
「そう・・・結果は?」
「今回の試験は、一応不成立の扱いになっています。理由は想定外の事象に至ったこと。そのため、いささか軌道修正の必要があったこと。それらが是正された上で、という判断ですが。事実上、君で決定したと言っていいでしょう」
風早は、躊躇わない。もう、痛みはないのだろうか。思い起こすことはないのだろうか。かつて、『是正』を受けたために彼の両親は『事故』に巻き込まれ他界した。遺児は『善意』によって葦原の分家へ引き取られた。抵抗の余地もない、一方的な契約の形として従兄となった・・・その、経緯を。
「どこからが、想定外ってことになってるの」
「ロフォフォラの取扱に問題がありました。あれは、二人が自ら使用することを前提に流されたものです」
・・・流された、とは意図して掴まされた、ということだ。目的が何だったか探ることさえ既に意味はない。夜の街で合法麻薬にでも手を出す展開の方がいくらかマシだろう、と那岐は思う。習慣性があっても、検挙されることがあっても。命を代償にする可能性は、ずっと低かったはずだ。
「しかし、事態は筋書き通りにはならなかった。これはサポートする側のミスです。君の身に危険が及んでなお、対応しきれなかった。是正は当然です。ついては、その一環として遠夜の扱いが変わりました」
「・・・なんだって?」
声がこわばるのが、自分でも分かった。しかし、それでも風早は動じず話を戻す。
「それにはロフォフォラが関係しています。遠夜は、あの植物が何であるか、知っていました。化学的な知識はともかく、存在と効能については。君は、どうです?」
「察しはつくよ、作用についてはね。メンタルに効くんだろ。でも、裏付けはない。日本ではほとんど流通してないはずだし、名前を聞くのも初めてだ」
「つまり、その点においてあの手の植物に詳しい君より更に優れている。使える、ということでしょう。ちなみにこれは、彼の後見人からの提案です」
「・・・それって」
「頭の回る人物です。葦原の失態と、自らのメリットを結びつけた。ロフォフォラで負い目ができてしまった葦原は、無下に断れない。もちろん、彼・・・アシュヴィンの表の顔と裏の顔、双方を評価したからこその判断ですが」
しばらくの間、那岐は黙っていた。後見人であるアシュヴィンは葦原の家を正しく理解しているのだろうか。その上で、遠夜を差し出したのだろうか。それに、何より。
「・・・遠夜は、そのことを知ってるの」
「いいえ。君の返答次第です」
意外な答えだった。探るような目つきに気付き、風早は苦笑する。
「ああ、ここは保留というのが適切でしたね。決定権は君にあるので、その方が良いと思ったんですよ」
「・・・捻じ込んだ、ってわけ?」
あの、本家に。飼い殺されていると言っても過言ではない、自身の立場も忘れて。
「君がチャンスをくれたんですよ。文字通り、身体を張ってくれたじゃないですか。一連の動きを見ていて、失態を拭うために遠夜がこの国の法に疎いことを・・・君たちが未成年であることを本家が利用するつもりだろうと気付いたので。万一、情報が明るみに出ても逃げ口上できるように・・・アシュヴィンの申し出を受け入れる、振りを本家はした訳ですが。たぶん彼は、その上を行くと思いましてね。ある程度、渡り合える能力が・・・君の資質が適している、と訴えてみたら通ったんです。ね、俺の舌先三寸でどうにかなる連中なんかより、君が主導権を持っていた方がいずれ遠夜のためになる・・・そうは思いませんか」
「一人で危ない橋を渡っておいて」
何でもないように言う。だから、どうしても見捨てられない。ずっと、そうだった。
「ええ。何しろ、俺は君が憎いので。君の身体を流れる、葦原の血が憎いので。そのための悪知恵なら、いくらでも沸いてくるんですよ」
「だから、子供の頃…僕を殺そうとしたって?」
「ああ、そんなこともありましたね」
・・・泣いていたくせに。逃げ場のない、追いつめられた子供の精一杯の抵抗だったくせに。憎いからだ、と言う。もちろんそれも正しいのだろう、けれど。
「君は、葦原の家が抱える闇を一人で背負う節がありますから。負い目ゆえに、俺が何をしても・・・君の身体を好きに扱っても抵抗しなかったのでしょう?」
「・・・はっ。先に死なれちゃ、それこそ復讐できないからだよ」
なんて滑稽なんだろう、と那岐は思う。風早の、毒で薬を包むような優しさは万人には響かない。それでも、分かる。自分には、分かってしまう。最後まで、大切なことは自分の意志で選べるように。憎しみだけでは片づけられない感情・・・その重さが、痛いほど伝わる。だから、返さなければいけない。自分も。
「僕が、葦原の影だっていうなら。あんたは、その足元にいるってことだよ」
この言葉は、鎖。束縛ではなく、存在を辿っていくための。それを、あげる。孤独だって、二つ揃えば別の形になる。これまでが、そうだったように。だから、自由は与えない。いびつな繋がりだとしても、それが救いになるのなら。その命を、『是正』の名の下に喪わずにすむなら。いくらでも、傲慢になれる。そんな望みを、那岐が本当に望んできたものを叶えるためだけに、何年もかけて嘘をつき続ける風早に応えるために。
「あんたは、僕の影だよ。どっちかが息絶えるまで、ずっとね。分かってる?これは、命令だよ」
冷たい声に、風早は頷いた。うっすらと、唇の端に浮かぶ笑み。那岐の他には読み取ることができないほど、僅かな熱を帯びて。大切なものを守ることはいつもそうだった。形を成さない嘘の中にだけ、本心はあって。互いにとって真実はいつも、闇の中で息をひそめている。けれど、その秘密に甘さは片鱗もなく。言うなれば、忘れがたいほど焦げ付いた後の・・・深い、苦みだった。
Fin