逢魔が時に


 ずっと、追いかけるばかりだった。少しだけ先を歩く那岐の影に、一回り小さい自分のそれが重なるように。その、一年というタイムラグをどれほど遠く感じていたのか分かるようになった、昨今。アルバムを逆めくりするように昔へ戻った那岐は、あどけなく呼びかけてくる。
「羽張彦」
 ここにはいない兄の名だ、と言うことはたやすい。けれど、それは見知らぬ者ばかりの時間の歪みに突き落とす行為だと知っているから。下手な嘘がばれないよう、布都彦は笑う。
「外、さむい?」
「那岐には、寒い」
「羽張彦は、さむくないの?」
 頷けば、つまらなそうにずるい、と呟く。
「どうして、狡い?」
「ぼくだけ、さむいから。あの人たちも、きっとさむくないって言うから」
 あの人たち、というのは風早と柊のことである。5,6才当時の記憶を漂う今の那岐にとって、少年であるはずの風早は20代半ばの青年の姿と合致しない。柊に至っては面識すら、ない。唯一、当時の羽張彦の年齢に近く、面差しの似た布都彦だけを混同という形にせよ、知己として認識できるのだった。
「熱が下がれば、同じになる」
 子供の理屈を納得させにかかると、那岐は布都彦の袖を引いて言った。
「もっと元気になったら、布都彦にも会える?」
 目の前にいるのがその当人だとも気づかない那岐に頷いてやりながら、幼い頃には仕草も含め、これほど表情豊かだったろうか・・・と。たどたどしい言葉の端々から零れるそれを、けれど今は切なく受け止めるしかない。
「あのね。ないしょの話、していい?」
「それは構わないが」
「ホントだよ。だれにも言わないでね」
 きょろきょろ見回して、それでも小さな声で那岐は言った。すると自然に澄んだ翡翠が、唇が、吐息が、間近にきて布都彦もまた、落ち着かなくなる。
「おじさんとかおばさんに、しかられなかった?」
「な、何をだ?」
「だからね、風早はたくさんしかられたの。助けてくれたのに、しかられたの」
 刹那、水音が聞こえた。聴覚でなく、記憶の狭間に波紋が広がる。水面を揺らし、浮いては沈み、を繰り返しつつ無情に川へ呑まれていく小さな子供。叫び続ける、自らの目の前で。届かない、腕の先で。
「・・・あの時の」
 川遊びの夕暮れ、身の上に起きた事件。今の那岐は当時にたたずんでいる。兄と風早を含め、四人で出かけたその日。初めて出会ったその日、那岐は命を落としかけた。断片的ではあるが・・・覚えている。泣いて、泣いて。自分のせいだと、本当のことを何度も訴えながら聞き入れられなかったことも。
「ぼくが、落ちたから」
 飛び込んで行った風早ともども、腕を引いて助け出した羽張彦に、今と同じことを那岐は言ったのだ。
「ぼくが悪いの。だから、布都彦をしからないで」
「だが、あれは」
 自分が、追いかけたからだ。先を走る那岐の影を踏めないのが悔しくて。つかまえようと伸ばした手が、よろけたはずみ・・・突き飛ばしたから、なのに。
「ちがうのっ!!」
 指が白くなるほど腕を掴み、遮って。
「風早も羽張彦も、助けてくれた。布都彦も。見てたよね。羽張彦、見てたから知ってるよね。だれも悪くないって。だからしからないで。たたいたり、どなったり、だめ。いなくなるの、もっとだめ。おねがいっ」
 那岐は、泣いていた。自分の命が、自分だけのものでなく。葦原という家に生まれたがゆえ、その言動が周囲の処遇にかかわるのだと、おそらく初めて知った日へ記憶を飛ばし、泣いている。
「・・・もう、いい」
 伸ばしても、伸ばしても・・・かつては届かなかった、手。なすすべもなく、沈んでいく身体を見ているだけだった幼い日は、昔。今は、違う。この先も、きっと。
「もう、大丈夫だから」
 誰かを巻き込み、傷ついても。泣く場所くらいなら、この腕で作ってやれる。17才の那岐は、起伏を隠そうとするのだろうけれど。今の自分なら、きっと分かる。泣きたい気持ちでいることにも気づいてやれる。影を縫い止めることはできなくても・・・あきらめない。
「ホント?」
「もう、過ぎたことだろう」
 正確に10年あまり前の出来事である。だが、嘘ではない。それ自体を取り沙汰する時期はとうに過ぎているのだから。
「・・・よかったぁ」
 けれど、幼い記憶は素直に言葉を受け入れたようでほっとした顔を見せる。
「なんか、たくさんしゃべったから・・・のど、かわいちゃった」
「分かった。なにか、温かいものを持ってくる」
 布都彦が出て行くと、那岐は室内を見回し始めた。先日まで「17才の」自分が使っていた部屋は、けれど幼い目には本棚さえも退屈で小難しい文字の羅列でしかない。そんな中、窓の外に見えた猫は興味を持つに十分なものだった。
「さむくないかなあ」
 床を離れ、近づくガラスの向こうで毛繕いする姿を眺めるうち、そろそろとガラス窓を引いてみる。
「・・・おいで」
 ひゅう、と差し込む冷気に首をすくめながら呼びかけてみる。だが、近づいてはこない。
「おいでよ。外、さむいでしょ」
 陽射しはある。だが、風はひどく冷たい。柔らかい体毛も冷え切っているだろう、と思われたとき。
「・・・那岐」
 後ろから手が伸び、外気は遮断された。いつの間にか戻っていた布都彦が窓を閉めたのだった。
「また、熱が上がるだろう」
「・・・だって」
 振り返った那岐は、けれど違和感を覚える。どうして、いつも見上げていたはずの羽張彦の顔が自分と同じ位置にあるのか、と。
「ほら。冷めないうちに」
 手渡されたカップで指先をあたためながら、腰を下ろし不思議に思う。床から離れられずにいた間に何が起きたのだろう、と。
「どうした?少し、熱過ぎたか」
「ううん」
 湯気にまぎれ、菊に似た香りがたゆたう。苦くはないが、多少クセがあり甘味もないので子供向けではない。
「これ、なんていうの?」
「ああ、カミツレの花を使っているらしい。これは那岐が・・・好きそうな気がしたんだが」
 少し考えて、布都彦は言った。17才の那岐が好んで飲んでいたのだから、嘘ではない。ただ、勧められて口にしたのここへ来てからだったから、幼少時の味覚に合うかは半々である。
「・・・うん。でも、羽張彦がくれるの、いつも甘いのだったし。びっくりした」
「そうだったか?」
「そうだよ。前にもらったココア、甘くて甘くて残しちゃったもん。そしたら、風早が残り飲んでくれて。でも、飲んだ後のカップにお砂糖いっぱい残ってて・・・」
 頭の中、声がこだまする。底にたまっていた砂糖。切れ切れに画像が見える。苦いのダメだと思って入れたんだ、と。多すぎですよ、子供相手だからってあなたと同じだと思わないでください・・・言い合う一人は、風早だ。そして、もう一人。羽張彦のそばに、誰かいる。
「・・・羽張彦は」
 ぽつん、と見える小さな影。あれは、誰だったのだろう。だからやめてください、と言ったのに・・・そんな声が聞こえる。羽張彦の身体に隠れて、それ以上は分からない。
「甘いの、好きだったよね」
「いや、飲み物はこれくらいさっぱりした方がいい」
 そう言って口にしたのは、那岐と同じ香りのするカミツレだった。あの時も、羽張彦は自分と同じものを飲んでいたのに。甘い甘い、溶けきらないほど砂糖を入れたココア。本当なら入れなくても飲めるはずだと風早にたしなめられていた顔が、目の前のそれとプレてくる。それぞれの、焦点が合わない。どこか、違う。何かが、変わっている・・・そんな気がした。
「・・・何だ?」
 落ち着かない那岐に気付き、そばへ来る影。
「どこか、具合が悪いのか?」
 ・・・目の高さ。手の大きさ。どれも、自分と違わない。ここにいるのは、羽張彦なのに。その、はずなのに。怖い。プレてくる、その世界が怖くて。
「あ、あのね・・・あの子、中に入れたら、ダメ?」
 思いついたまま、別のことを口にしていた。
「猫か。なら、庭に出てみるか。人慣れしていれば逃げたりはしないだろう」
 上掛けを羽織らせ、共に玄関から庭へ回る。その足元を凝視する瞳には、気付かぬまま。
「・・・ああ、いたな」
 折しも、夕暮れ時。庭には影が伸びていた。
 同じだ、と那岐は思う。陽射しを受けて伸びる影。その長さが。あの日、本当の自分より大きく見えるのが嬉しくて、それでも羽張彦や風早の影はずっと大きくて。どうあってもかなわなかったから、二人で競った・・・二人で。川べりの草に足を滑らせ、流れに呑まれてしまうまで。隣を走っていたのは・・・。
「那岐?」
 覗き込んでくる瞳から逃れて距離を取った。・・・違、う。羽張彦なら、自分と同じであるはずがない。同じ長さの、影を持つわけがない。
「・・・・・だれ?」
 やっとの思いで、那岐は言った。
「羽張彦じゃ、ない。似てるけど、違う。目の高さも、影の長さも僕と変わらないなんて、変だよ。羽張彦じゃ、ないっ」
 身をひるがえし走り出そうとした那岐は、けれどすぐに誰かにぶつかり、止まった。
「ええ、そうですよ。そこにいるのは、彼の弟です」
 見上げた顔が、そう言った。
「弟、って・・・」
「知っているでしょう。布都彦ですよ」
「・・・うそ・・・」
 知らず、那岐は口元を押さえる。何が起きているのか、分からない様子で。
「自分の、その手をごらんなさい・・・大きいでしょう。足元をごらんなさい・・・高くなっているでしょう。君は大きくなった。誰もに等しく時は流れた。思い出せるはずです。俺のことも・・・昔見た、顔の中から」
 ・・・確かめる。ゆっくりと。手のひら。地面の高さ。そして、男の造作を食い入るように見上げた。
「この顔は、誰に似ていますか。あの子の顔を見て羽張彦と呼んだ君なら、探し出せるずです。その、記憶の中から」
 瞳が、意識が瞬く。・・・ああ、そうだ。この目を自分は知っている。底知れない、けれど敵ではない。放ってはおけない、誰か。そうしていけない、大切な・・・いつもそばにいた、離れることのできない優しくて油断ならない、誰かだ。そう、この独特の空気を持つのは・・・。
「・・・かざ、はや・・・?」
「ええ。なら、あの子のことも同じようにたどってごらんなさい」
 振り返る。追いつかれまいと走り続け、安穏とした子供の世界から踏み外した日を。心を閉ざした、不確かな光の方へと。
「あ・・・・・」
 時計が、動いた。頭の中、すさまじい早さで、針が回る。隣を走っていた姿が、ぐんぐん大きくなる。変わりたくなくて、変わらずにいられなかった時間の流れも。葦原の家が持つ、清濁の矛盾に傷付き疲れて壊れたのは、壊したのは心ではなく身体だった。その不浄を、悟られたくなかった。巻き込みたく、なかった。大切な記憶であるほどに。突き放してきた、のに・・・どうして。
「布都彦・・・」
 近づこうとする足元、視界が揺らいだ。支えようと当たり前に伸ばされる、手。掴んではいけない・・・ずっと、ずっと。そう、思ってきたのに。
「那岐!!」
 あの日も、あの時も、今も・・・変わらないまま。ただ、大人にになって・・・手を伸ばす。
 今度こそ、届くように。この手が、心が。それだけを、願って。



Fin