・・・気付いたときには、足元の感覚がなかった。ただ、ふわふわと空を漂う頼りなげな視界。そこから見下ろすは、周囲から切り取られたような四角い空間。その中を右へ左へ、無様に這い回っているのは誰あろう自分自身で・・・否、違う。
自分は、ここに在る。それが意識だけだとしても。これほど、自由に。遥か高みから、見通す目を持っている。・・・違う、はずだ。空を舞う翼を持つ身が、あのように地を這い逃げ惑うはずがない。
なのに、聞こえる。肉欲に組み敷かれ、高い声を上げて啼く声が。
あざ笑う彼らの、指を、舌を・・・押し込まれる肉塊を、欲しがる本能がそこには見える。まさぐられるほどに肌は色めき、ひとりでに腰は揺れ、熱を持つ感覚が自分のものでないというのなら。何故、目をそらすことができないのだろう。吐き出そうとする衝動を戒められ、乱れ狂う身体へ押し入ってくる痛みも、息苦しさも。嘘だと、違うというのなら。股を伝う滴のもどかしさも、身の内へ外へと容赦なく塗りつけられた臭いさえ、これほど生々しいものを。
・・・そうだ、と意識は告げる。切り離そうとする生身の瞳は焦点を失くしたまま、こちらを見ている。だが、それだけだ。突き上げられるたび、羞恥は消し飛んだ。もっともっと、とせがまずにいられたのは自制心ゆえではない。もう一人のそれを頬張り、舐めしゃぶっていたからだ。熱く、大きく育ってゆくものを吸い続け、溢れるまま喉を鳴らし、唇の端から伝い落ちる滴さえも名残惜しく舐めとったのは・・・強いられたからでは、ない。
あの、淫らな生き物が望んだこと。たゆたう意識はそれを見届け、やがて心を閉ざした。肉欲の檻に捕らわれたままの自分から。与えられる快楽をねだって、せがんでおきながら傷ついた顔をする、身勝手な自分から。そうして、どこまでもふわふわと流れ流れた意識は、やがて光を感じた。
きらきらと、ゆらゆらと降り注ぐ光の中から。最初はぼんやりと、だんだんにはっきりと自分を呼ぶ声がして。たゆたう光にまぎれ、遠く、近く、伸ばしてくるその手を掴めたらいいのに、と。立ち止まった意識は、目を開き。呼びかけた声の主を・・・覚えのある顔と良く似たそれを見つけ、問うてみた。
「羽張彦・・・?」
呼びかけてきた声の主と、その名前との違和感を、微かに覚えながら。
滴が、落ちてくる。雨ではない。涙でも、ない。そんなものは身の内から、とうに渇ききっている。薄い皮膚の下、感情の代償としてうごめくのは赤い泉だ。それが意識を抜きぬけ、何者かの生ぬるい滴として降り注ぎ、いまだ人の身に捕らわれし魂の在り様を思い出させるに過ぎない。当初は感じていたやもしれぬ痛みにも、もはや飽きてしまった。
「運がなかった・・・と、言うべきところなのでしょうね」
およそ憐れみを書いた声で、柊は言った。
「盗難届の出ている、それも故障しているバイクを運転中に自損事故・・・だ、なんてね。亡くなってしまえば、罪に問われても弁明すらできはしない。それが事実であろうと、なかろうと。いかに停学や退学を危ぶまれる生徒であっても、教職の身としては潔白を信じたいところですからねえ」
「罪・・・ね。当人にその意識がなければ、たとえ事実であっても覚えがないに等しいのでは?」
「辛辣ですね」
表情のない風早を評する柊は、人の生死を語るには不謹慎な笑みを添えている。何より、自身もそうである、と証明するかのように。
「いずれにしても、これであの子を手にかけた・・・いや、問題の画像掲載の痕跡から見て可能性の高い2人は世を去った。一方で被害者は、意識を取り戻したものの状況を立証できるに至らない。これでは、事件そのものが霧散しても不思議はないですね」
「那岐なら・・・」
言いかけて、今この時も那岐のそばにいる布都彦の顔が浮かんだ。成長した今、幼い過去。同じく時を過ごした彼ならば或いは、と思う一方で・・・迷う。いっそ、このまま。このままであれば、と。
「どうしました?」
「いいえ、なるようになるでしょう。あの子次第ですから」
「そうですか・・・それにしても、君の回りには不幸な事故が多いですね」
風早は、動じない。だが、否定もしなかった。
「君の両親も、事故で亡くなったのでは?知り合ったばかりの頃、羽張彦が君が養子になった経緯についてそのように言っていたかと・・・まあ、彼の説明は今も昔も大雑把なものですが」
「それが今回に関係しますか?ですが、あえて『偶然』が作りだされることもあるにはあるでしょう」
「おや、それはもしかして思わぬ情報をもたらしてくれた、遠夜のことですか?であればそれは、彼をこの学園に招いた葦原の家を指すことになりますが」
自身への皮肉をすり替えて、柊は問うた。彼の編入が、思惑の絡んだものと知っていて口にしたのだ。
「それは、意図です」
「・・・だ、そうですよ。遠夜」
今このとき、学園内は授業中である。しかし学年を越えて講義を受ける遠夜は姿がなくとも不審がられることは少ない。ゆえに、生徒の身でありながら柊のテリトリーである医務室で共に意見交換ができるのだった。
「ここにいる、理由・・・どうして、いらない。那岐、たいへん。だからできること、する。俺の知ってること、話す。それだけ」
「君の行動理由は、実にシンプルですね」
心底、感嘆した様子で柊は言った。
「人として純粋、ということでしょう。悪いことじゃありませんよ。では、聞かせてください。君が知っていること、分かったことを」
「屋上で見つけた、緑。あれは、ロフォフォラ。本当は、ここにないもの。儀式に使う、大事なもの。神の声、聞くとき使うもの。決まった人しか、使うの、だめ」
「ロフォフォラ・・・確か、南米産のサボテンですね」
心当たりがあるらしく、柊が補足する。
「那岐も、聞いたかもしれない。神の声、つらい時ある。まわりに人、いても・・・神の声を聞くとき・・・自分だけ。たくさん使うの、たくさんつらくなる。夢の人になるとき、ある」
「幻覚作用がありますからね・・・痛み止めとしても使われますが。科学的に言うと、メスカリンを含有しているので麻薬やLSDに代用されたという報告例もあります。日本でも栽培されていなくはないでしょうが、効果があるのは現地の野生のものだけとも言われています。なので、中毒症状が出たとしても常用していない限り、一時的なものかと。そのあたり、どうです?風早」
「那岐は薬効のある植物全般に詳しい。あなたほどではないにしてもね。たとえ鎮痛効果を必要としていても、そういった危険性のあるものを使おうとはしないでしょう。ですが、入手ルートはともかくとして幻覚作用が今の状態を引き起こした可能性はあります。ただ、それだけが理由ではないでしょう」
那岐は、過去をさかのぼった。言動から察するに、10年余り。でなければ、いかに兄弟で外見が似ていたとしても布都彦と羽張彦を混同するなど、あり得ない。また、那岐は幼い頃から病弱であり薬剤にはある程度の身体的耐性がある。未知のものとはいえ、自然界に存在する効果をいつまでも体内でひきずってしまうとは考えにくい。
「でしょうね。ロフォフォラは、現地のものでなければ苦味が先に立って幻覚作用はさほど得られないはずです。何を目的に使ったか、あるいは使われたのかは想像の域を出ませんが・・・遠夜、君には入手ルートについて心当たりがありますか?」
「・・・ある。アシュヴィン、売るとき、ある。欲しがる人、ときどきいる。少し、試す人いる・・・言ってた。でも、それだけ。もっといっぱいのこと、は分からない」
「ああ、君の後見人は貿易の仕事をしていたのでしたね。売買が正規のルートであればいいのですが・・・いずれにせよ、どうやら想定外の偶然が起きたようですねえ」
柊が溜息をついた。無論、言葉通りではない。君も知らない所で何かが動いたのでしょう、と風早に示唆しているのだ。否定する気はない。それが葦原という家の意志であるならば。
棄てるつもりだったのか。棄ててもいい、と考えたのか。耐え得るはずだ、と信じたのか・・・那岐という存在を。葦原の後継としてでなく、影の力として生きられる器であることを、或いは試したのか。
「・・・それでも」
那岐は、那岐のまま。子供の心に戻ったとしても、彼たらしめるものが変わらず残っているなら。
「まだ、終わったわけじゃありませんよ」
かつて、自らの運命を変えた見えざる手。その闇へと、風早は呟いた。未だこの時に戻ってはこない、17才の那岐の言葉と信じて。
FIN