逆さ時計



 眠れずに目を開けば、部屋の中は薄闇だった。時刻を確かめるまでもなく、朝はまだ遠いのだろう。けれど床についたところで睡魔が訪れないことは分かっている。壁ひとつ向こうに、現実は在るのだ。
 今は身体を休めるように、と保護者めいたことを言った風早はそのまま那岐のそばについている。余計な騒ぎになるからと緊急搬送をせず、一方では柊を呼び念のためのバイタルチェックを済ませる周到さだ。確かに頼りにはなるだろう。うろたえるばかりの自分とは比較にならない。
 ・・・それでも、と。 布都彦は、自室の壁に額を押し当てた。隣の部屋へ続くそこから、気配は感じられない。静かすぎて不気味なほどだ。
「・・・那岐」
 今は泥のように眠っているであろう、その名を呟いてみる。
 駆け上がった屋上、開け放った視界。無機質な鉄柵へ、鳥が羽を広げるように繋ぎ捕らわれていた白い裸身。月下のそれは近づくほどに生々しく、微かな笑みは痛々しかったというのに。
「・・・・・っ」



 思い出す。身体中の、熱い痛みと共に。屋上には不似合いな水音を立てた、足先の感触を。思わず意識を向けた床に点在するそれら、は。揺らいでは鉄柵へ打ちつける下肢から滴り落ちる、白濁に他ならなかった。
 たまらず手を伸ばし、抱きしめた身体は外気に晒され続け冷え切っていて。触れてきた熱に安堵した様子の那岐は、その場で意識を手放したのだった。
『布都彦、那岐は』
 背後で風早の声が聞こえ、遠夜の気配もした。こんな有様を、那岐は知られたくないのだろうけれど。
『・・・両の手足を柵に捕らわれています。紐かロープか、暗くて分かりませんが解いてやってください。今しがた意識を失ったので、身体を支えていてやらないと倒れてしまいます』
 抱きとめていれば、せめてその間は裸身を晒すことはない、と思っての言葉だった。けれど風早は躊躇いもなく柵を越え、僅かばかりの足場に身を置いて言う。
『いえ、この柵の高さで意識がないとなれば、そのまま後ろへ倒れて落下しないとも限りません。肩や頭を支えた方がいい。俺がこちらで壁になりますから、君たちで解いてやってください』
『では・・・遠夜はこの辺りを調べてくれないか。気配はなかったが、物陰に誰か潜んでいるかもしれないし、気がかりなものが落ちているかもしれない』
『わかった。暗いところ、良く見える。みんなより、わかる』
 そうして那岐の四肢を自由にするうち、風早は何気なく身体をかがめ、柵の向こうから転がすように何か投げてよこした。遠夜のいない方向へ、である。不審に思いつつも構わずにいると、やがて風早も柵の内側へと戻ってきた。
『これ、那岐の?でも・・・冷たい』
 打つ捨てられていた様子の制服を抱え、遠夜が歩いてくる。不審者はいなかったようだった。
『でしょうね。でも、そのまま着せてはかえって身体が冷えてしまう』
 着ていたコートで包み込み、抱え上げた風早に遠夜は片手を開いてみせた。
『那岐・・・これ、使ってた?』
 そこにあったのは、翠色の小さな塊だった。植物のようである。
『いいえ、おそらくは。日本のものではないようですし』
『私も覚えがない。遠夜は、知っているのか?』
『知ってる。でも・・・ここにある意味、わからない。調べる』
 その言葉に風早も布都彦も異論はなく、場を後にしようとした。・・・と、その時。
 僅かずつ、布都彦の足元へと近づいてくる不自然な振動があった。先を歩く2人に気付かれぬよう確かめると、それはコンクリートの上をひとりでにのたうち回る、醜悪な造形だった。
『聞くまでもない、か』
 自分達には気づかせぬよう、風早が無言で投げたもの。おそらくは追って処分するつもりだったはずのそれを、生命の危険に晒す一方で那岐を内側から辱め続けていたであろうそれを。布都彦は、力の限りで踏み潰したのだった。その、怒りのほどはまだ胸にあるというのに。



「・・・っ、は・・・・」
 ずるずる、と壁を伝って身体が落ちる。那岐を辱めた何者かに憤る一方で、身体の端々に宿る熱を御しきれない。月下に浮かびあがっていた、裸身の生々しさが今も残っていて。そろそろと伸ばした指先は、その欲を捕えた。手の中で跳ねるように脈打つ気配。ああそうだ、と布都彦は自嘲する。自分も、同じなのだ。
「・・・・・那岐・・・」
 こうして責め立てれば、ほどなく果てて吐き出す身体。結局はそうして汚したがっているのに、と。分かっていて幻を抱き、ねじ込む行為を止められない。どろり、と濡れる手。反して渇く心。何が違うと言うのだろう。いまこうしている自分と、那岐を凌辱した彼らとの、何が。その答えが出ない限り、苦しみは苦しみのまま。何も変わりはしないのだろう。
 けれど、朝はくる。闇が霧のように晴れ、光が生まれて世界は動き始める。そうして結局一睡もしないまま、廊下へ出た布都彦は隣の様子をそっとうかがった。
「・・・どうぞ」
 中から声がする。それが風早なのか柊なのか、区別もつかぬまま襖を開くと、那岐はまだ眠っていた。だが血色はいくらか戻っている。
「おやおや、君の方がよほどひどい顔色ですね」
「繊細なのでしょう、あなたと違って」
 普段と変わらぬ2人は、交代で仮眠をとったらしく、さほど疲れた様子もない。そして、眠っていない布都彦を責めようともしなかった。
「ところで私達は仕事もあるので出かけなければならないのですが」
「那岐を一人にしておくわけにもいかないので、今日はひとまずついていてもらえますか?休みの連絡は俺から入れておきますから」
「は、はい。それは、もちろん」
 布都彦がほっと息をついた時、那岐が僅かに身じろいだ。
「起こしてしまいましたか」
「ええ・・・ですが」
 ゆっくりと目を開け、周囲をうかがう瞳に焦点はない。それは柊の顔を見た時も、風早が覗き込んだ時も同じだった。
「気分はどうですか。頭痛や吐き気はしますか」
「・・・ちょっと、さむい」
 そう言って布団を引き寄せた那岐は、ふと戸口にいる布都彦に目を止めた。そのまま、五秒・・・十秒。視点が動かない。けれど意識がはっきりしてきたのか、意志を持って見つめる様子がそのまでとは違っていて。
「あの子が、どうかしましたか」
「ここ・・・どこ?」
 そばにいる風早ではなく、訝しげに見つめる柊でもなく、布都彦に向けて那岐は言う。
「ねえ、この人たち・・・だれなの?」
 そうして2人を指さす仕草のまま。ここにはいないはずの人物の名を、呼んだ。
 ・・・・・『羽張彦』、と。



Fin.