風が頬を撫でてゆく。だが、それは凍りつくよすな触手だ。乱れ髪もまた、冷たくうなじを打つ。身体は芯から冷えていた。だから、だろうか。足元がおぼつかない。まるで大気を踏む頼りなさだ。いや、あるいは自分の体が空にでも在るのか。
翔べない、くせに。幼い頃、広々と見えた空にはそこかしこに果てがあって叩き落とされる。果てが見えないままでいたなら、それを自由と感じていられただろうに。眼下の世界をそのまま我がものとして生きていられただろうに。物心ついた時には、この翼は折れていた。否、望んで折ったのかもしれない。そも、この身は正しく人の姿で生まれたのだろうか、と。浮遊する意識と身体が危うくさせる。自分が何者であったのかさえ、もう覚えていないけれど。思い出したい、気持ちも見えないけれど。
ただ、どこかで声がする。遠く・・・遠く。呼び続ける、陽の下の声。光と影が交錯する記憶の中で、その手は伸ばされた。届かなくともかまわずに。追ってきたその手が扉を開けた、始まりの日はいつ、だったのだろう・・・・・。
飛び出そうとした身体は、戸口で遮られた。まるでそうすることを予期していたかのようなタイミングで、風早が帰ってきていたからだ。
「玄関を開けっぱなしにするなんて、君らしくもない。そんなに血相を変えて、どうしたのですか?」
常ならば頼もしく見える落ち着きさえ煩わしく思えるのは、非常時ゆえか、胸に渦巻く感情ゆえなのか。分からぬまま、布都彦は彼の手を押しのけようとした。
「説明している暇はありません。どいてください、急ぐんです!!」
「話が見えませんよ。何があったんです?」
と、後ろにいた遠夜が口を開いた。
「那岐が、いない」
「・・・いない、とは?どういうことです」
「その中に、いる」
指差したのは、布都彦が握りしめたままの携帯である。那岐絡みで不穏なことが起きているのは察しがつくが、そこから先はさすがに分からない。
「話してください、布都彦。君一人で動くより、たやすいはずです」
「・・・これを」
差し出された携帯の、メールと添付画像を見たとたん、風早の表情が険しくなった。と、同時に自身の携帯から手早く発信を始める。
「・・・もしもし、広報ですか?今は自宅ですが・・・ええ、緊急です。サイト責任者に取り次ぎを・・・はい、裏サイトの閉鎖もしくはアクセスの禁止を早急に。並行して本日アクセスしてきたすべてのIDについてリストアップ、ひいては彼らのサーバーか端末使用停止を関係先へ依頼してください。後は時間を稼ぎながら、データの削除も・・・回復時には適当な理由をつけて、必要であればメディアを多少利用していただいて結構です。それから順次、彼らの受発信記録を把握して必要であればこちらのデータアクセス・・・削除もお願いします。それから画像提供者のIDについては、その動向や所在地の確認も必要です。こちらについては随時、連絡いただけますか・・・ええ、それでは」
その様子を、布都彦は呆然と見つめていた。まさしく、何がどうなっているのか分からない。わけてもメディアの利用、とはどういう意味なのだろう。
「・・・今のやり取りは、いったい」
「ああ。学園の裏サイトは、生徒のガス抜きのため放置しているだけで実際には広報・・・事務局が管理していますから。アクセスの緊急停止くらい、通常業務のひとつにすぎません。現時点では意図が分かりかねるので、念のためデータ流出を防ぐ手立ては講じましたが。それより、那岐がいなくなったのは何時頃の話ですか?」
「分かり・・・ません。遠夜が放課後やって来て、教室にはいなかったと。医務室ものぞいたがいなかった、と・・・気配を感じない、とまで言っていたので気になって戻ってみたのですが自宅に戻った節もなくて。そうこうするうち、友人からさっきのメールが」
と、風早は得心がいった様子で遠夜を見た。
「気配・・・ああ、君は本国ではそういった治癒を行っていたのでしたね。気が見える、といったところでしょうか」
遠夜はこくこく、と頷いて困った顔をした。
「でも、那岐の気、いま・・・見えない。遠くにいる。那岐の気持ち、とても遠いところ」
「何かの理由で、意識レベルが下がっているのでしょうね。君の言う通り、早く見つけた方が良さそうです。心当たりはありますか?」
問われて、布都彦は唇を噛んだ。急ぐ、と言いながら具体的に何をすべきなのかも分かってはいなかった。せいぜい、近隣を走り回る程度のことだ。探す当てなど、あろうはずもない。
「では、一緒に来ますか?」
「分かるのですか、那岐がどこにいるのか!?」
勢い込んで聞いた布都彦に、風早は曖昧な笑みで応える。
「推測ですよ、根拠はありません。ただ・・・学園か、それに近い場所ではないかと」
「・・・行く。那岐の身体、心配。きっと、弱ってる」
遠夜が言う。それは布都彦も同じ気持ちだった。
けれど、急ぎ学園へと向かう道ではやはり疑問が沸いてくる。根拠はない、と言った風早だが何か思うところはあったはずだ。でなければ、問題に直面した瞬間の判断力・行動力からして即座に那岐の身を案じ、通報してもおかしくはない。
「・・・あなたには、分かっているのではありませんか?」
「何がです?」
「この一件にかかわった相手が、誰なのか。場所も。あるいは、その理由も」
「推測の範囲でなら、ね。でも、今は那岐を見つけることが先決です」
布都彦が言う通り、察しはついていた。必要なのは裏付けだけで、それは先刻電話で依頼してある。行動は結果を待って示せば済む。そう・・・葦原流の方法で。それを布都彦が知る必要はない。否、その義務も条件も、今の彼にはないのだから。
「ですが・・・そうですね、学園の裏サイトに流れていたのは不幸中の幸いでした」
「どういうことでしょう」
「公のサイトであれば、不特定多数の人々が目にします。範囲は広く、ダメージも大きい。ですが、今回はアクセスする人数が限られています。そもそも学園関係者だけが利用するサイトですし、IDも要求されますから把握もしやすい。では、なぜ敢えてそんな所へ流したのでしょう?よほど愚かか、それが効果的と考えたか・・・です」
いずれにしても、葦原の人間を手にかけたことで代償を負うことにはなる。それが分からなかった以上、自虐性があるかどうかはともかく、愚かには違いないが。
「効果的、とはどういうことです?」
「不特定多数が相手の場合、那岐がどこの誰であるか知らない可能性も少なくない。ですが、学園の人間であればどうですか?理事長の血筋でもある那岐のことは、ほぼ目にし耳にしているでしょう。一日にして学園という小さな社会を駆け巡る、事件になります。だから、場所は学園内ではないかと思ったんですよ。今回は続き、も用意していたようですしね」
布都彦は押し黙った。頭に血が上るばかりで、何も考えられずにいた自分がひどく無力に思えて悔しく、腹立たしかった。感情に左右されるだけでは何も解決しない、ということなのか・・・否。今はそれ自体が無意味だ、と。首を振り、考える。できることはあるはずだ。今の、小さき自分であっても。
「・・・そうだ、あれは」
画像は、微かに空が見えていた。そして、白い腕を戒めていた鉄柵。フェンスではなく、柵のある場所。人の身体ひとつを支えられる、空が見える場所の・・・。
「屋上です!!」
警備室へ連絡を取っていた風早の脇を抜け、上空を指差す。正門の正面、時計のある校舎。その最上階に、那岐はいる。きっと、いる。視界のきかない闇の中でさえ、そう思えるのは。届かない手を、それでも差し伸べていたい心が、今も胸にあるから。
・・・地上を、走ってくる影。今は夜、見えるはずもない。けれど、声がする。ああ、と那岐は思い出す。目に映るものは、信じられない。心が捉えるものこそが真実だと。人の身であろとなかろうと、それは同じ。その、おぼろな意識の中で扉を開けるのは誰なのか。影は伸びてくる。光差す場所へと。それはきっと、心の内で確かになる。
FIN.