食事や入浴を終えてしまえば、集う居間もないこの家では、各々の部屋に落ち着くのが常だった。布都彦は元より早寝の習慣だったし、風早にしても翌日の授業やテストの準備に取り掛かっていることが少なくなかったからである。むろん那岐にしても、常ならそんな2人の邪魔をする理由はなかった、のだけれど。
今宵は静まった廊下で襖の開く気配がした。布都彦なら洗練されきっていない所作が僅かばかりの音になる。ゆえに気配で伝えてくるのは、那岐をおいて他にない。
「・・・風早」
囁くような声がした。自ら襖を引かないのは、躊躇いがあるからだろう。けれど、そうしたものを抱えるのは那岐の悪い癖だ。
「どうぞ」
躊躇なく招き入れた風早の目を見ず、部屋に入った那岐は所在なげに立ちつくしている。
「どうしました?珍しいですね」
座布団を勧めながら問うてみる。察しはついていたが、こらちから切り出したのでは彼がここへ来た意味がないからだ。
「・・・今日」
それが分かっているのだろう。那岐もまた、気が進まない様子ながら重い口を開いた。
「変なヤツに絡まれてるとこ助けられた、って・・・布都彦が言ってた」
「ああ、うん・・・と、言っていいのかな。彼らも大切な生徒ですから、変なヤツっていうところには素直に同意しかねるけど」
「綺麗事はいいから、答えて。そこにあんたがいたのは、偶然?」
「どういう意味かな」
何食わぬ顔の風早を、那岐はこの日はじめてまっすぐ見据えて言った。
「形通り、言葉通りならかわさないはずだ。なんかある時、あんたはいつもそうしてきた・・・違う、とは言わせないよ」
「そうですか・・・まあ、君とは長い付き合いですしね」
「・・・ほらね。肯定も否定もしない。布都彦が言ってた、その2人組・・・僕のところにも来たよ。遠夜が一緒だったせいか、遠巻きにしてただけで話しかけられたりはしなかったけど」
その時は嫌な目つきをする連中だと思っただけだったのだが、遠夜は彼らから悪い気を感じる、と忠告してくれた。布都彦から事情を聞いたのはその後だったが、風貌も一致していたので間違いなく同一人物だろう。
と、そこまで聞いた風早の口角が上がっていた。笑った、のだ。
「遠夜は優秀ですね」
「・・・まさか・・・遠夜が来たのも偶然じゃない・・・のか?」
「話しませんでしたか?彼は、理事長と付き合いのある貿易省の口利きで」
「そういうことを言ってるんじゃない!!}
鋭くさえぎって、那岐は問うた。
「本家の、意志なのか?」
ならば、そこに在るのは役に立つか、否か。意義はそれだけだ。
「君が判断すればいいことです」
さらり、と風早は返す。それが葦原という化け物じみた家のためだとは一言もなく、那岐に委ねられているとだけ。けれど、それは肯定に他ならない。・・・しかも。
「・・・遠夜がどうなるか・・・は、僕次第ってこと?」
当人がそれを知っているのかどうか、はさておき。知らぬうち、彼の命運を握らされているであろう事実に那岐は青ざめた。
「自分の目で良し悪しを定める、良い機会でしょう?君も、人を見る目を養わなくてはね。ここでの生活には、そうした意味もあるんですから」
「ここでの生活、って・・・」
「物理的に離れていても、君が葦原の血を引いているのは事実です。その葛藤を踏まえて成長する時間と思えば無駄はない。違いますか?」
・・・忘れていたかった、のに。葦原の家に根付く考えなど。風早が引き取られた理由も、そこにあるのに。彼はそれさえ乗り越えたのだろうか。抗い続けているのは、自分だけなのだろうか。
「君も、頭では分かっているはずです。良くも悪しくもあらゆる業界に影響する以上、光もあれば影もあるのだということを。羽張彦は、それを受け入れました。次期総領である彼女を、名実ともに支える覚悟のもとに」
那岐は、はっと顔を上げた。千尋が言っていた、姉の恋話は本当のことで。風早の言う『覚悟』がなければ、羽張彦はただの手足で終わっていたのだろう、と気付かされたからだ。
「とは言っても、弟である布都彦がどう判断するかはこれからでしょう。俺が見たところ、あの子はあまりにまっすぐで、今のところ裏と表を使い分ける適性は感じられませんが」
「・・・そう」
正直、ほっとしながら返した那岐に風早はなおも問うた。
「君は、どう思いますか?」
「どう・・・って?」
「君にとって、彼は使えますか?使えませんか?」
「そ・・・ういうんじゃないだろ!!なんで、あんたはっ・・・」
葦原の家に踏みにじられたくせに。その考えに染まりぬくのか。いっそ、憎めばいいのに。あの、秋の日のように感情をぶつけてくればいいのに。ならば、その痛みを受け入れることもできるのに。
「ダメですよ、那岐」
ひどく優しい声で風早は言った。
「君は、自分が傷つくことで相手を守っているつもりかもしれないけれど。切り捨てることを覚えなければ先には進めない。割り切ればいいんです。柊とは、そうしてバランスを取ることができたのでしょう?」
「・・・そ、れは・・・」
「感情が存在しない、身体だけの関係・・・それを彼との間で覚えたはず。飽きたならそれも良いでしょうが、今はどうしてるんです?」
見つめられて、不意に熱を覚えた。ここしばらく、立ち消えるよう努めてきた衝動だ。かつてはこの部屋で繰り返したそれは、布都彦がやってくるのをきっかけに、途絶えた。それで終わりにできるはずだった。けれど、身体の奥底から湧きあがってくる熱がおさまることはなくて。
「使えばいいんですよ?」
髪へ差し入ってくる、指。そのまま項を撫であげる仕草。そこからもたらされるものを、那岐は覚えている。忘れようとしても、身体の端々に染みつくほど覚え込んでしまった。このままではいけない、と思いながらも。
「それで満たされるなら、ね」
自分は違う、と思いたかった。人を人とせず、道具として扱う輩にはなりたくなかったのに・・・かつて、快楽を共にしたその手を振り払えない。
けれど、あの時とは違う。求められる瞳をはねつけられなかった、あの時とは。互いの、底辺に流れるものは違っているのに。
「身体だけなら割り切れることを、もう君は知っているんだから」
風早との関係を終わらせる中で起きた、柊との自虐的な熱の交わりを否定することはできなくて。那岐は、ゆっくりと目を閉じた。
Fin