始まりと終わり


 どこかで、鳥が鳴いていた。風が奏でる木々の音、舞い踊る枯れ葉に姿を隠して。あの日と同じく、降り注ぐ木漏れ日の中、風早はゆっくりとその手を開く。眼下に在るのは、かつての幼いそれではない。けれど確かに滲んでいる、見えざる赫。それは幼い心が汚れと疑わなかった罪だけれど。
 今朝方、布都彦に絡んでいたのは以前から問題を起こすことの多い生徒だった。幸いにも警察沙汰に至ることはなかったので、学園としても残り数カ月を何とかやり過ごし卒業させようと考えている節がある。しかしそれは加害者にならなければ、ということ・・・判断の基準が学園のオーナーである本家の発想であるならば。
「・・・懐かしいなぁ」
 思考とは裏腹な穏やかな面持ちで、過去の残像に呟く。けれどその言葉だけは嘘偽りなき本心だった。那岐は、時を経てもあの日から変わらない。同じではない、けれど良く似た情景がそれを思い出させる。変わることのできなかった優しい一面が、今も昔も自分を赦そうとするのだと。
 目を閉じれば、昨日のことのようによみがえってくる秋の日。屋敷の一室には誰もいなかった。今なら、そのからくりも分かる。自分達は、敢えて2人きりにされたのだ。『彼ら』は待っていた。幼い子供が、行き場のない感情を持て余した挙句、冒してしまう罪を。その先に用意された代償と共に。何も持たない子供の前に差し出された、唯一自由にできるもの・・・その誘惑に手を伸ばす瞬間を。それを思いとどまらせてくれたのは、他ならぬ那岐だった。
 そうした記憶に取り紛れ、そこかしこに降ってくる落葉を踏むうち陽は落ちて、帰途につく足取りから影を伸ばす。帰宅したら、『これから』の一例として話してやらなければならないだろう。事実そのものは布都彦から伝わっていても、肝心なところは那岐の中で眠ったままだから。
「ただいま」
 かつては当たり前だった、奪われてしまった言葉が扉に手をかけた瞬間、こぼれてくる。そんな取るに足らない日常を、色褪せぬ若葉と共にどれだけ続けられるかは分からないけれど。
「・・・とりあえず、ここは換気扇ですね」
 どれほど深刻な状況下にあっても、日々の営みは当たり前に存在していて、現にキッチンは煙が立ち込めていたからだ。そして、中では布都彦が焼け焦げた尾がのぞくグリルを前にして溜息をついている。
「うまくいきそうだったんですが・・・時間をかけすぎたんでしょうか」
 匂いからして、秋刀魚を焼いていたらしい。何はともあれ、と換気扇のスイッチを入れると那岐も顔を出した。
「なに?さっきから、すごいけむいんだけど」
「ああ、秋刀魚の尻尾がちょっとね。そうそう、今度から化粧塩をして焼くといいですよ、身の方は焦げるというほどじゃないですし。脂がのっていて、なかなかおいしそうです」
 手早く荷物と上着を脇に寄せ、喜々として皿を並べる様子からは裏の顔など伺えもしない。けれど、そのどちらもが風早だと那岐は知っている。知っているから、彼を本家の道具にはしたくなかった。当の本人が躊躇しないとしても。それは今でも・・・これから先も。
「ほら、那岐も手伝ってください。せっかくの汁ものが冷めてしまいますよ・・・おや、今日の具は茄子ですね。今しか味わえない味覚ですよ」
 いつまでも、続くはずはないけれど。このまま、続けられる関係ではないけれど。それは、那岐が生まれる前から。彼が葦原の分家に引き取られた時から決まっていたことだけれど。
 今も残る記憶は、喉元へかかる感情から始まったのだから。ぼんやり薄れてゆく意識の中で、捉えた秋風。鳥のさざめき。そして・・・涙。そこから、風早とのすべては始まったのだ。



Fin