・・・蒼く、蒼く。闇に溶け込む蒼の中、白い船が見える。果てない大海では一葉に過ぎなかったそれは、けれど近づくほど大きく、甲板に点在する人々と対比すれば長い航海にも耐え得るクルーザーだと分かる。
その、数ある窓のひとつ。クルーザーの持ち主が過ごすその部屋に今日は客人がいた。客人の白いドレスから伸びた脚へローヒールを履かせているのは、常ならば万人にかしずかれている東金千秋に他ならない。
「・・・良う似合うてんで、ユキ」
「誉めてるつもりかもしれないけど、今日だけだからね」
視線を合わせないのは、羞恥ゆえだ。千秋の顔も、その背後にある鏡も見たくない。化粧を施された顔も、ドレスも、足元のおぼつかないヒールも、このクルーザーも本来なら自分とは無縁の代物だったのに。
今日が千秋の誕生日でなければ、『今年は品物以外のプレゼントがいい』と言った彼に応じた言質がなければ。
{ほな、そろそろ行こか」
と、ドレスに合わせた白銀のショールに包まれた肩を抱き、そのまま部屋を出ようとする。
「ちょ・・・このまま?恥ずかしいよ」
「なに言うてんねん。ヒールなんやし、支えがなかったらいつも以上にユキは転ぶやろ。黙ってくっついてたらええねん」
そう言われてしまうと、事実なだけに反論しようもなくて。
波のようなざわめきと感嘆が迎えたフロアは、生誕を祝うという名目のもと集まった無数のゲストで満ち満ちていた。それでも、パートナー同伴を条件にしたためか、客層は親世代がほとんどである。そんな彼らは、主賓への祝辞もそこそこに、隣に控える見覚えなき『少女』に目を向けた。
「ところで、こちらの御令嬢は?」
「野暮なことを。こういった席へ伴うからには、いずれ相応の間柄だとお察しいただきたい」
「いや、これは失敬。お兄様がたとお年が離れておられるので、こういった話はまだまだかと思っておりましたが・・・なかなか隅に置けませんな」
「本当に。清楚で、上品で、お美しくて・・・お名前は何とおっしゃるのかしら」
声を出せばさすがにまずい、と雪広が返事に困っていると千秋は肩に回していた手を腰まで滑らせ、いっそう引き寄せるようにして笑った。
「これは申し訳ない。遠からず正式にご紹介するつもりではいたんだが、大切に育てられすぎてこういった場には不慣れらしくてな。緊張のあまり、声もないらしい」
「まあ、そうですの。東金財閥ともなれば、何かとお付き合いも多いでしょうに。大変ではなくて?その点、うちの娘は社交的でしてよ?」
上品そうに見えて、上級社会は棘や毒に事欠かない。今のうちに乗り換えてはどうか、と言いたいのだろう。名家であるがゆえ、こうした輩は少なくない。現に、同様の悪意は幾重もの渦を巻き、冷ややかに取り囲んでいる。
「ご心配、痛み入るといったところだが・・・確かに虫がつく心配もなければ、その方が使い手はあるかもしれん。加えて語学が堪能なら、秘書や外交官など目指されてはいかがなものか」
雪広は、痛烈な皮肉で人波を縫って歩く千秋の服を思わず引いた。
「・・・なんや?」
囁く声で、普段使いの言葉が漏れた。
「良く分かんないけど・・・こういうとこって、面倒なことにならないようにいい顔しないとダメなんじゃないの?さっきの人、絶対気を悪くしたよ。目が笑ってなかったし」
「ええんや。お前を見下すような連中、どうせ大したことないわ。東金の家にとってもな」
そうか、と雪広は内心納得する。名家の末子である千秋は、東金財閥との繋がりを手にしたい人々にとって格好の対象なのだろう。けれど、彼らは知らない。傀儡となるような愚かさや現状に甘んじる無欲さなど、千秋にはないことを。自分を利用しようとする人々に辛辣な目を向けるどころか、逆手に取りかねないことも。
雪広には、それが手に取るように分かる。絶え間なく顔を見せる人々に対峙する千秋は、どこまでも大人の顔をしていて。幼い頃から鍛え上げられた審美眼で彼らの本質を見極めているのだ、と。そうして自分が害為す目に晒されるたび、腰へ回した手に力をこめ、庇おうとする心の内にも。
「・・・千秋は、優しいね」
「今ごろ気ぃついたんか?」
うん、と雪広は頷く。ここへ至る前、『手近なとこで選ぶと後が面倒やから』と巻き込まれた理由に。虎視眈眈と財閥との足がかりを狙う人々に対する風除けの代役とはいえ、こんな風に大切にされたら誤解するなと言うのが酷だろう。まして、少なからず好意を抱いていれば、なおさら胸が痛むはずで。
「・・・ユキ?」
ふわり、と。喧騒を抜けた甲板で腕を解いた背中へ声をかける。手すりに身を預け、海風に吹かれ大海を遠く眺める線の細い身体は、知らない者からすれば上背はそれなりでも可憐な女性にしか見えないだろう。
「ずっと黙ってたからかな・・・ちょっと、考えてた」
「へえ、あんだけ狸に囲まれとってか。なんや、余裕やん」
「そうでもないけど、大事に扱ってもらったしね。だから、千秋に選んでもらえる人は幸せなんだろうな、って」
たとえ、それが家同士の都合によるものだったとしても。きっと千秋はまだ見えない誰かに、自分ではない誰かにこうして触れるのだろう、と。振り向こうとした、刹那。
引き寄せられたはずみで、肩口のショールが夜風に舞い上がる。その、頼りない影の下。唇が柔らかいものに触れた・・・掠めるように。
「・・・そんなん」
抱きしめられた腕の中、雪広は肩越しに目を見開く。忘れていた懐かしい記憶が、不意に見えて。
「ユキ以外の、誰や思てんの」
声は、震えていた。自身かの千秋らしからぬ脆さがたったひとつ、こぼれる場所。それは心から欲しがるがゆえの本音で。
『おっきなったら、ケッコンしよな!!』
無邪気な約束は、けれど叶うことなどないはずだった。それは互いを取り巻くものが分からずにいた幼さゆえの罪だと、割り切ってきた。千秋には抱えるもの、背負うものが多すぎて。自分が入り込む余地など、ないと思っていたから。・・・なのに、いま。
「ダメだよ、千秋」
・・・嫌じゃないから。突き放すことができない。この背中を抱き返す勇気もないくせに。世間の目をくらませる茶番でもなければ、あり得なかった位置。事故や冗談で済ませなければいけないはずの、キスさえ。
少女であれば、『今日だけだから』とは言わなかった心が呟く。言葉にはできないまま。千秋のこの腕は、もっと別の・・・彼の家と、それを取り巻く人々のために使われるべきなのに、と思うほどに。
風に踊っていたショールが、力なく波間に溶けてゆく。ゆるりと弧を描き、沈んでゆく。そうして封じることができたなら、傷みはなかったものを。
・・・終わりに、できない。ひとときの幻に過ぎないはずの、恋人の顔を。
Fin.