巻頭言
ひたすらとりくむ
山 本 隆 三

 教師になって初めて担任した女児が六十年もたって、突然に三浦綾子の『道ありき(青春編)』を送ってきた。
「主人の本棚から取り出して読んでいると当時の先生の姿を思い出し、失礼かと思いながら、この本を先生に差し上げたいと思って、主人の了解も得て送らせて頂きました」という手紙が添えられていた。

 『道ありき』の冒頭は
「七年間の教員生活は、私の過去の中で、最も純粋な、そして最も熱心な生活であった。私は異性よりも、生徒の方がより魅力的であった。
 授業が終わって、生徒たちを玄関まで見送る。すると生徒たちは、”先生さようなら””先生さようなら”と、私の前にピョコピョコと頭を下げて、一目散に散って行く。ランドセルをカタカタさせながら、走って帰っていく生徒たちの後姿を眺めながら私は幾度涙ぐんだことだろう。」
で始まっている。

 教育というものが何もわかっていない中で取り組んでいた私の姿が、鮮明にこの教え子の脳裏にあったことに感動を覚えた。教え子は教わった内容より取り組んでいた私の姿を脳裏に残していた。教え方はめちゃくちゃだったと思うが取り組んでいた心を受け取ってくれていた。これが教育だったんだと思った。

 今も教師は指導力の向上を目指して必死に教え方を求めている。教え方、まさに「方」である。しかし、万人に成立する「方法」って存在するであろうか。あちらの教案を探り、こちらの教案を探り求めあがいている。その姿は尊いがこれでいいのだろうかとも思う。人の頭を借りて指導するとまでは言わないが、目の前の学習者である子供の実態を横に置いて指導が成立するのか疑問である。

 教師が育つ、それは指導法を数多く知ることではない。目の前の学習者である子供の姿を見て、伸ばす糸口を見つけて(教師自身が豊かになり)、どこからでも方法を見つけていく力をつけることである。自分自身の頭と心で求め続け、自分の学級の指導を見つけることができることである。教師としての成長、それは自分の頭で生み出せる力をつけることであろう。まず子供の心を聞き「心を通わせる」ことが根底である。

 ひたすらとりくむ。この中から自分の教育が生まれ、「教師としての自立と成熟」が得られる。「教育を生む」、今こそ心すべき教師の姿勢であろう。「情熱と純粋」、忘れかけていたことを再認識させられた。ガウディの芸術の原点は愛情であるという。教師の指導の原点も愛情である。いや責任と言ってもいい。人の頭に頼る前に自分の考えを持とう。

 丁寧すぎる(甘やかしぎる)指導も考えものである。もっと突き放して、子供が楽しんで(苦しんで)、悩んだり、失敗したり、困ったりして自分の力をつけてやる(鍛えてやる)ことに力を注ぐべき時である。学ぶ・教えるという関係の中での「無意識の感化」にこそ教育がある。教育は教師という「人」を見せて未来を作っている。
(国語研究集団「東風の会」代表 元西宮市立東山台小学校長)