巻頭言
待  つ
高 丸 も と 子

 人との出会いがそうであるように、作品にも必然と感じる出会いがある。それは通勤帰りの満員電車の中でのこと。前にいる人の読んでいるページが丁度私の目の位置にあり肩越しから私も読んでいた。それは読者の投稿欄で「タクシーの運転手さん」とあった。

 幼い頃、顔に火傷を負ったその女性は、高校生になり好きな人ができた。顔面の傷を気にして自殺を図ろうとする。厳寒の夜半、家を抜け出しタクシーに乗る。行先と彼女の様子から運転手は察する。そして自分にも娘がいる、親というものはいつでも心配してると話す。東尋坊に着いた時「気が落ち着いたら戻っておいで。おっちゃんはずっとここで待っているから」と言ってドアを開ける。夜が白々と明ける頃ふと、運転手の言葉を思い出す。確かめるために引き返すと、ぼうとした人影が近づいてきた。運転手は長い間、外で彼女が戻ってくるのを待っていた。何も言わずドアを開け温かい車内に入れてくれたのだ。家の前まで送ると、いつでも電話をと言い番号を書いた紙を手渡す。その後、彼女に好きな人ができ、結婚式に運転者さんを招待したい。という話で終わっていた。

 私はこの話を学級の子ども達に、保護者に、教え子にと紹介してきた。どの様な時でも、待ってくれている人がいるというのは、どんなにうれしいことだろう。

 この話から私は、親にしかできないこと、他人にしかできないこと、そして教師にしか、友達にしかできないことがあると強く思った。もし、親ならこの場合、必死で止め、傷を負わした自分を責め続けることだろう。他人だから放すことができた。運転手の言葉には祈りと賭けがあった。しかし、放した後はいつでも走り寄れる距離で待っていたに違いない。自分の立ち位置、距離、待ち方は、そうせずにはおれない無償の愛だった。日頃から信頼関係のある教師や友達の間では尚更のこと。必ず救えると思うのだ。

 私たちは待つ行為の中で生かされている。湯が沸くのを待ち、冷めるのを待って飲むというその一連の中にも「待つ」が溶け込んでいる。命あるものはいずれ皆、待ってくれている自然の懐に還っていく。「冬来たりなば春遠からじ」にあるように人は待つ向こうに希望を描いて生きてきた。時間そのものが「待つ」であり「生きている」ことなのだと私は初めて気づかされたのだった。

   約束
  待つのもいいけれど
  待ってもらうのも
  うれしい

  わたしが
  絶対生きてるという
  証拠だから      (『今日からはじまる』 大日本図書)

(国語教育大阪恵雨会代表)