巻頭言
「国語力は人間力。」
阪 上 由 夏

 これは、私が育った京都女子大学附属小学校の合言葉だ。昨今、特に若者の間での言葉の乱れを指摘する声が目立つように思う。実際に、会話をしていて単語や熟語の扱いが雑になったという感覚は否めない。なぜ、言語の扱いが雑になってしまっているのだろうか。

 原因の一つに、コミュニケーションにおける距離がなくなりつつあることが挙げられるように思う。今までは面と向かって話す場合でしかタイムラグのないコミュニケーションがありえなかったことから、意図や意味合いをより正確に伝える必要があった。しかし、それが技術の進歩によって電話、メール、LINE、そしてそこからさまざまなSNSと、多くのツールが生まれ顔を突き合わせなくてもリアルタイムでのコミュニケーションが可能になったのだ。近しい関係では仲間内でしか通じないノリが生まれてきやすいだろうし、そのノリの一環として仲間内でしか通じない単語たちも生まれることだろう。そして、その「仲間内」の範囲が世界へと広がったことによって、また正確に文意を伝える必要性がなくなった(ように感じる人が大勢いる)ことによって言語はあいまいなものへと変異していったのではないだろうか。

 ここで、ネット上での特に文字媒体を介したコミュニケーションによるもめごとを想起された方もいらっしゃるかもしれない。そう、技術の躍進は決して正確な意思疎通を手伝ってくれるばかりではない。それと同じくらいに、あるいはそれ以上に「伝わったという感覚」を両者に助長するものだ。日頃生きている場が違う者たちが交流できるようになったことは、同時に相手の文化を尊重する必要性がより一層出てきたということでもある。技術の利便性に引きずられることなく、ツールとして理性的に使うべきだと言えるだろう。そして、それにはマナーという共通したルールが大きく寄与すると思う。なぜなら、共通のルールを持つことで相手の意図がわかりやすくなり、価値観や感覚の相違に対応しやすくなるからだ。

 今軽んじられ始めているのは言語の正確性だけではない。人間関係において距離感はとても重要な指標のはずだ。効率を重視するあまり、かえって無為なトラブルを産んではいないか。私たちは今一度見直す必要がある。
(洛南高校附属中学校3年)