人 と し て
弓 削 裕 之

 全校でルールについて考える授業に取り組んだ。5年生担任で教材研究をした際、授業をする上で大切にしたいことを話し合った。子どもたちがルールそのものについてどう考えているかを知ること、子どもの発言に対して「その通りですね」などと返して正解を作ってしまわないことの2点を共通理解して授業に臨んだ。

 授業の始め、「ルールとは何ですか」と子どもたちに尋ねた。
「みんなが気持ちよくすごせるようなきまり」
「みんなが守らないといけないきまり」
「みんなが共感する規則」
「多数の人が受け入れられるように作ったきまり」
「みんなが楽しく遊んだりできるようなきまり」
などの意見が出た。「みんな」「多数の人」という言葉が光った。

 次に、学校生活に絞り、どのようなルールがあるか、なぜそのルールがあるかをみんなで考えた。廊下を走らない、人をたたいたりけったりしない、持ち物に名前を書く、チャイムが鳴ったら座る、他人の物に触れない、「〜さん」と呼ぶ、右側通行をする、授業中に立ち歩かない、丁寧な言葉遣いをする、給食の後片付けは静かにする、高額なお金を持ってこない、マスクをつける、給食中に話さない…などなど、17個のルールが発表された。黒板の端から端に@〜Pまでずらりと並んだルールを見た子どもたちは、「十七条憲法だ」「聖徳太子だ」と盛り上がっていた。

 「低学年に優しくする」ということをルールとして発表した子がいた。「学校が楽しい場所だと思えるように」という理由だった。「あいさつをする」も、ルールとして発表された。理由は、「自分も相手も一日を気持ちよく過ごせるから」ということだった。「思いやりの心を持つ」というルールが発表され、理由について考える時、空気が変わるのを感じた。「ルールなのかな」という疑問の雰囲気があった。「ルールだと思う人」と尋ねると、誰も手を挙げなかった。「どうしてルールではないのですか」と尋ねたら、みんな首を傾げていた。その時、ある子が、「当たり前だから。人だから」と言った。  今の学校に勤めて初めて高学年を担任した時、吉永先生から「人として大切なことを教えてあげてください」という言葉をいただいた。自分の言葉が子どもたちに届いていないと感じる時が何度もあったが、その度に「人として」という言葉を思い出し、言葉を選んだ。

 私は黒板に「人として」と書き、赤チョークで囲いをした。子どもたちがルールについて考える時、必ず「自分以外の誰か」を意識していたことを認め、ルールを作った人も同じ思いだっただろうと付け加えた。

 ちなみに、17番目に発表されたルールは、「三行日記を提出する」だった。理由は「先生が悲しむから」。授業が終わると、「17番目!17番目!」と慌てて日記を書いている子どもたちの姿が見られた。
(京都女子大学附属小)