巻頭言
マスクと「聞く」こと
石 川 教 夫

 マスクというともはや予防用具のマスクのほか思いつかなくなりましたが、maskの元来の意味は「仮面」です。「仮面」は本来それが表示するものになる道具ですが、終日マスクをしていると自分を隠 す「覆面」の気がしてきます。
 「突然の来客の時マスクあると助かるわ」とは我が妻の言ですが、隠せるのは素の顔だけではありません。表情も隠せます。表情は感情に繋がっています。感情は、私そのもの、生(なま)の自分でもあります。

 高校の教員をしていた時、卒業まで一度もマスクを外さなかった女生徒がいました。彼女は、生(な ま)の自分をマスクの下に隠したかったのかもしれないし、自分を守りたかったのかもしれません。
 マスクはこのように心理的なアイテムにもなるようです。しかしコロナ感染においては、予防という機能自体が相当重要なはたらきをしています。感染の不安と死の恐怖が蔓延し、過剰とも思える予防策や同調圧力がそれらを助長しています。今起こっている誹謗中傷や偏見・排除あるいは自粛警察≠ニいう問題行動の背景にも同じ要因があると考えられます。

 それはさておき、これほどマスク着用が長期間に及んでくると、マスクを外し辛い人がでてきても不思議ではありません。思春期の子どもであればなおさらです。
 「たかがマスク、されどマスク」です。しかもその要因には心理的な要素もさることながら死の恐怖という実存的宗教的な要素が潜んでいるかもしれません。ですから、マスクの着脱をためらっている子どもがいたら、ぜひ話を聞いてあげてほしいと思います。

 ところで、「聞く」ということですが、その大切さはすでにご存知の通りです。私は「聞く」をモットーに教育相談をしてきました。でも、なかなか聞けないものです。いったい「聞く」とはどういうことかと迷いながら子どもたちと出会い続けてきました。その経験を通して気付いたことを一,二お伝えしたいと思います。
 一つは時間です。まずは五分を確保したいものです。というのは「先生が私のためにだけ時間を割いてくれた」と子どもが実感するには五分は必要だと思うからです。聞く側も五分なら多忙の中で何とか取れるし集中もできるからです。
 とはいえ個室で対面となると、子どもも緊張して話せなくなるものです。学校には学校にしかない相談空間があります。廊下を歩きながら、草を引きながら、掃除をしながら等、その方がリラックスもできます。話ができるようになれば徐々に時間を伸ばし、個室に移っていけばよいと思います。
 話を聞く時の心構えですが、とにかく子どもが語るままを尊重することです。大人からすれば些細な内容でも、その子にとっては世界そのものであり、それを言葉に紡ぎ出してくれているからです。

 マスク着用はいつまで続くのでしょう。気の重いことですが、それを逆手にとって、子どもたちの内的世界に触れていく機縁にできればと願っています。
(浄土真宗本願寺派永順寺住職・日本学校教育相談学会学校カウンセラー)