巻頭言
体験は言葉を通してはじめて経験となる
佐 々 木  晃

 「スペシャルジュースをどうぞ。」「ありがとう。いただきます。」私が容器に口をつけて飲みかけると、「だめだよ。園長先生。本当に飲んじゃ」と幼児にあきれられた。すっかり興醒めてしまった様子である。幼児たちのごっこの会話にジョークを挟めば、「園長先生、ふざけないで。これは遊びじゃないのよ」と、注意される。幼児の遊びは不思議で奥深い。

 一見、矛盾するかのような幼児の言葉の背景には、意識の複雑な重層構造が垣間見える。「私は遊ん でいる。これは遊び」という意識の層(「地」)の上に、生命力に満ちた幾重もの遊びの物語が「図絵」を織るかのごとく描かれ、展開されていく。

 私は幼児の遊びが興味深く、愛おしい。「大人に守られている」安心と愛情につつまれながら、わく わくするような未知の世界と出会った私の幼児期の記憶につながっていくからなのだろう。幼児の遊びを見取ることの難しさを恐れず、学びや成長という文脈から理解したいと切に願う私の保育研究の根っこがあるように思う。

 「ドングリの事例」。登園すると、3歳児のカナコはすぐ築山に駆け上がっていく。この日も小柄なカナコはクヌギの根本にあるサツキの植え込みに埋まるように膝を抱えて、いつもの定位置で物思いに ふけるような表情でいた。私も彼女の隣に座して同じように膝を抱えた。私は、当時、カナコのことが気がかりであった。鬼ごっこに誘っても「いや」と首を振った。おやつすら食べない日もあった。私は友達関係が原因かと心配したこともあった。家庭での様子を母親に尋ねもした。

 「明かされた真実」。研究紀要作成のため大学3年生のカナコにインタビューした。「15年ぶりに幼稚園に行ってみて、あの頃のまま、クヌギの木があったのに驚きました。私は、あの築山でぴかぴかのドングリが落ちてくるのをずっと待っていたんですよね。あのクヌギの木から落ちるドングリは、特別なドングリに思えたんです。・・・中略・・・皆でつくる基地は遊戯室の積み木、一人の基地は剪定したカイヅカイブキの中だったのですが、その中央に座ると空がぽっかり見えました。木と空との境界線がくっきりしていて、その境界線の先から絵本の世界に入っていけるように感じていました。サルビアの花の蜜は甘かったし、真っ赤なイチゴは長くて細い茎の先にコロンとしていました。折り紙の貝がらつなぎにはまり、切り目を入れて対角線でつなぐとふっくら丸まったのを覚えています。言い出したらきりがないほど、不思議に思うことがいっぱいでした。」

 今は大学生になったカナコの話を聞き、幼児期の遊びが人の学びや成長に深くかかわっていることをうれしく思った。その一方で、行動観察では捉えることのできなかった私の未熟さを痛感した。好光先生の「体験は言葉を通してはじめて経験となる」(「花明り」67号)の通り、保育者もまた、幼児との対話の中で、体験の意味を紡いでいかないと経験という質には到達できない。保育の質は対話の質でもあると思っている。
(鳴門教育大学附属幼稚園園長)