授業の名言から考える(2)
森 邦 博

 「実践なき理論は妄想である。理論なき実践は妄動である。
 私の記憶では、全国国語実践研究会会長、故須田實先生が、研究大会開会式でのミニ講演の中でお話された、印象に残っているフレーズである。忘れないでおこうと、レジメの片隅にメモした。このように対比すると訴える力が強い。
 聞きながら思い出したのは、指導案と、教室の実際の子どもたちの学ぶ・学び合う姿とが乖離している授業。私自身の苦い授業の経験が甦る。

 それは、物語を読むことの授業だった。
 熱心に教材研究をし、授業展開・発問・ノート作りや話し合い活動場面・板書案を考えた。その成果を生かして単元全体の指導計画・本時展開の案を作成し、細案もノートに書き記した。計画には満足感を感じて研究授業に臨んだのだった。
 子どもたちがこの通りに発言し活動すれば誰もがよく分かる授業になるはずであった。いわば理論面の自信は満々であったのだ、私の中では…。

 導入は指導案通りに行った。さて次はと 、指導細案に目をやった。子どもの発言をうまく取り上げて立体的に板書で構成していくから分かりやすい板書が出来上がるはずだ。そこで、まずAさんを指名した。が、思った答えが返ってこない。次々と指名していく。満足する発言はない。板書が予定通りできなくなる。焦りが起こり、それがどんどん大きくなっていく。そして、板書計画に沿った答えにしか目がいかなくなっていったのだった。
 自らの指導案に縛られ、目の前にいる子どもの考え・意見が受け止められなくなった状態であった。指導案を立てた時に浮かんだ私の授業像は、いわば期待的で希望的な「妄想」。決して現実ではない事を忘れていたのだ。

 もちろん指導案はしっかりと立てることは大変重要である。指導案が理論的に筋道が通っていないと、展開にも発問にも必然性がなくなるので、授業は右往左往。子どもの発言も応答も、そして板書もバラバラになる。授業の何がねらいなのかが不明な実践でしかなくなるからである。それを授業の「妄動」というのだろうと思う。
 しかし、私は苦い経験から、そのうえで、実際の授業場面では、子どもの声を謙虚に聞き、読み取ることを忘れてはならないことを学んだ。
 子どもの姿に学びつつ、実践の振り返りを通して授業理論を修正し、より確かに構築していくことを大切にしていきたい。
(京都女子大学非常勤講師)