文学なき国語教育へ
川 端 由 起

 高校の国語で、これから文学が選択科目になるらしい。「文学界」でも、9月号で「文学なき国語教育が危ない!」と大きな特集を組んでいた。また、「大学入学共通テスト」や新たな学習指導要領(小学校や中学校)では、○実用的な文章の重視、○複数の資料(文章、図表、グラフ、写真など)の利用、○架空の対話形式の文章が求められている。

 「大学入試共通テスト」の思考調査の問題では、景観保護の条例、役所のポスター、駐車場の契約書 、生徒会規約など、実社会で使われている法律や公文書、広告など、それらが「実用的な文章」として、問題文に使われた。これらはそれまで小学校や中学校の「国語」教科書には入っていたが、高校の国語では少なかった材料である。それを「大学入学共通テスト」ではメインの問題文に用いることになったのである。

 また、新学習指導要領の高校国語の必修科目「現代の国語」では、「書くこと」「読むこと」双方で扱う「文章の種類」が「論理的な文章や実用的な文章」と規定されている。ここから、国語教育の目的が、社会で実行力を持つ情報伝達や意思疎通のスキルに著しく特化されていると推測できるのではないか。そのような能力を育てるのは、国語教育として必要不可欠なことも否定できない。しかし、ある種のバランスを欠いたものと受け止めざるをえない。

 私たち人間は現実世界にいるが、物語の欲求が小さい頃からある。例えば、幼児の見立て遊びを見てみると、砂場にスコップで山を作り、トンネルを掘る。そして、コップがトンネルの中をくぐると、コップはその時点で機関車であり、どこかの山岳地帯で自分が汽車に乗り、運転している風景が浮かびあがる。また、おままごとでは、料理を作り、友人にふるまうことで、自身はある家族の一員であり、母親を疑似化しているのである。また、おしいれがどこかの世界への入り口となり、横に転がっているほうきが、魔法の世界への入り口となり、タンスが未来の世界への入り口となるのである。また、遊びの世界では、仲間を作ったり、敵と共に戦ったりなど、冒険物語が演じられている。すぐれた文学作品は、そこに私たちがのめり込む時、私たちが他人の立場で自分を客観視することと、私たちとは異なる世界に身を置き、異なる社会を体験することを可能にするのではないだろうか。私たちは、文学を読むことで、人種、階級、国籍における考え方の違いに出会う。そして、それらを学びつつ、他者の思考、価値観、人生の世界観を体験する。そして、その他者に反感することはあったとしても、自己と対比し、他者のその考え方にある種の共感を覚えるのではないか。

 新学習指導要領は、変更することはできない。また、高校の国語科で文学は選択制になったが、小学校・中学校の義務教育では、文学作品を扱っている。とすれば、我々の日常の国語教育は非常に重要である。文学的文章教材は、説明の文章と違って、主張・データ・理由づけの要素が明確ではない。「答えがはっきりしない」「納得がいかない」から面白くないと子どもには映ることもある。教える側としては、子どもの思わぬ発言こそが、文学作品の醍醐味なのであるが。しかし、生きていく上でも現実ははっきりしない。納得がいかぬことだらけなのである。不確実な状況に対応できる能力、「判断力」を育成するには、文学的文章教材の不確実さそのものを扱い、研究することが大切なのではないかと思う。子どもが人生で迷った時、文学作品の中の登場人物の何気ないセリフや、試行錯誤した登場人物の気持ちの読み取り作業が子どもの前進のきっかけとなることを願って止まない。
   参考文献:どうする?どうなる?これからの「国語」教育  紅野謙介編
(大津市立石山小)