子どもの宇宙こそ! 〜夏休み子ども俳句教室2〜
好 光 幹 雄
京都市長賞木のうらの ききょうは少し さみしがり 神谷遥香(3年生) 京都市教育長賞 さるすべり 赤、白、ピンク あまいかな 須藤羽菜(2年生) NHK京都放送局長賞 ぜん寺で みななかよしの せみしぐれ 田中花穏(3年生) 風鈴が とてもすてきだ きれいな音(ね) 郡山幸大(5年生) 「お寺には四季それぞれの美しい花が咲いています。この一輪咲いている青紫の花も綺麗ですね。名前を知っていますか?」 「桔梗です。」 「はい、よく知っていましたね。このお寺にはたくさん咲いています。後で探してくださいね。」 興聖寺境内を少しまた移動して、 「ほら、綺麗な花が咲いていますね。赤、白、ピンク、綺麗ですね。どの色の花が好きですか?この花は百日紅(サルスベリ)と言います。どうしてサルスベリと言うか知っていますか?」 「???」 「この木に登ろうとしても、猿でさえ滑るほど木の幹がつるつるしているからですよ。ほら、幹を触ってみてくださいね!」 「今度は、30秒間、目をつむって何が聞こえるか。では。」 「はい、30秒経ちました。何が聞こえましたか?」 「蝉の声。」 「はい、凄い蝉の声ですね。これを蝉時雨(セミシグレ)と言います。」 日常、見聞きできる花や蝉の声でも、寺という非日常的な空間での体験は新鮮だったのでしょう。言葉を知ることでそれらが一層身近に感じられ鮮明に見えはっきりと聞こえたのかもしれません。子どもが未知なる神秘的な宇宙と遭遇した場面です。更に言葉を通してその宇宙体験は貴重な経験となりました。その後、風鈴作りとけん玉遊びを各自選んでしました。ペットボトルにマジックでデザインして出来上がった風鈴は、その透明感もありガラス細工の風合いで個性豊かな作品に。風鈴の音で涼を取るということも無くなりかけてきた昨今、風鈴作りはこれもまた子どもたちにとって初めての新鮮な体験だったのでしょう。けん玉は学校でもしますがけん玉名人の技に感嘆の声。自慢気に技を披露したりチャレンジする子。風鈴作りもけん玉も、日本の伝統的な文化に触れると共に、子どもたちのやり抜く力(非認知的能力)が発揮される場ともなりました。 このように子どもたちと一歩一歩立ち止まり、目にするものを再度見る、雑然とした音に集中して耳を傾ける。「見ている」ということと「見えている」ということ、「聞いている」ということと「聞こえている」ということは、根本的に違います。日本人が胡麻粒のような小さな花をも美しいと感動し、外国人の多くには雑音のようにしか聞こえない虫の音にも耳を傾け心を癒すことさえできるのは、虫の音を「聞いている」のではなく虫の音が「聞こえている」、花を「見ている」のではなく花が「見えている」からなのです。私達は日本文化の良き伝統の中で、もそのものをありのままに見るということや全身で耳を傾けるということを自然にして来た訳です。 しかし、生活様式の変化、教育の上部だけの生産性や効率化を求める風潮の中で、その良き伝統が崩れかけています。私たちは、そのような危機意識の中で、子どもたちの心の中に、自然な形で、この良き伝統を伝え、培い、広げ、子どもたちが将来に渡って、人として豊かな感性で生きる礎を築く一助になればと願うのです。 ところで、「才能無し」等と毒舌で酷評する俳句の指導が、恰も本物の指導だと誤解され持て囃される現状を皆さんは如何に思われますか。あのような指導を真似て、子どもの作品を否定する指導を現場で見てきた私には、許されざる愚行。子どもの豊かな宇宙を壊しているのです。添削も作者自身を尊重しない軽薄なもの。唖然とし嘆くのは私だけなのでしょうか。 最後は爽やかに。参加した保護者・関係者から数句紹介します。(子どもの俳句は前号紹介済み) かぶとむしつやつやひかるチョコレート 仲屋麻希子 かぶとむしはじめてふれる我が娘 山西良一 風鈴に色とりどりの風生まれ 川端建治 大股の和尚に桔梗静かなり 高丸もと子 石畳亡き父と行く百日紅 織田智永 蝉探す天に向けてる喉仏 吉永幸司 夢探す子等の瞳や雲の峰 好光幹雄 参加者関係者全ての皆様へ、深謝。 (さざなみ国語教室同人)
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