夏の俳句教室に参加して
勝 矢 真 一 郎

  かぶとむし かたいよろいが ボディだよ

   さるすべり せみのぬけがら すべってる

   てらのにわ かぶとむしさん かわいいね

 7月27日、興聖寺の俳句教室に参加した息子の俳句である。俳句を通して、息子が自然に興味をもったり、今まで何気なく通り過ぎていた景色に注目したりするようになった気がする。特に「百日紅」という木を知ったことが、うれしかったらしく、街中で「あっ、百日紅あったで」「あれは、くぬぎかなあ」など、木のことをよく話すようになった。息子は、帰ってからも、自分の作った俳句のこと、寺で見た百日紅や、虫たちのことを、妻にうれしそうに語っていた。その様子を見て、私もうれしくなった。

 今回の俳句教室では、指導の中で「どんな俳句にも花丸をあげる」ということを、とても大切にされていた。息子も、花丸をもらっていたからこそ、自信をもってお母さんに話そうと思ったに違いない。妻も、息子があまりにうれしそうに語るものだから、「すごいね。いい俳句だね。」とうれしそうであった。「(俳句の書かれた)風鈴、窓にかざっといてや。」と頼む息子の顔は誇らしげであった。今回の俳句教室で、もし細かな添削指導が入っていたら、もし作品を稚拙だと否定されていたら、このような光景は我が家に生まれなかったかもしれない。「玄関に俳句を飾ってもらった子どもが、お客さんから褒められ、それがきっかけで国語を好きになった」という好光先生の語られたエピソードと、少し重なるものを感じた瞬間であった。

 息子の作った俳句は、私には作ることはできない。今の息子にしか表現できないものだろう。「ボディ」とか「かわいいね」とかいった言葉の表現は、私からは出てこないものである。そう考えると、今の自分自身の内面や考え方、生き方が滲み出てくる言葉、今の自分にしか生み出せない言葉に、重みや尊さを感じられる。息子がその日の一行日記に「ことばをかんがえるのがたのしかった」と書いていた。言葉は自分を表現するもの、自分の周りの世界を彩るもの、しいては自分自身を豊かにしてくれるものだと改めて感じさせられた。俳句を通して、子どもが自分の世界を広げている様子がよくわかった。「子どもばかりに俳句を作らせるのではなく、大人も作らないといけない」と吉永先生がおっしゃっていたので、私も一句。

  補虫網 たくされた父 背伸ばし

 子どもと共に、大人も成長する夏です。
(甲賀市立伴谷東小)