毎回、悔しく思う
西 條 陽 之

 さざなみ国語教室のホームページをご覧になったことはあるだろうか。その中には、本誌のバックナンバーも保管されており、遡ると平成10年7月号まで閲覧することができる。秀逸なのは記事検索である。学年・領域別にありとあらゆる実践や報告を拝見することができるこのページは、私にとっては金銀財宝のありかを見つけたような、そんな心持ちにさえさせてくれる。

  『一つの花』の授業を行った。私の永遠の課題、そして弱点である“基本的な学習 ”にまた、陥ってしまった。初発の感想、子どもたちからは、様々な疑問が湧き出る。「食べものじゃないコスモスをゆみ子は喜んだのか。」「何も言わずに汽車に乗ったお父さんの思いとは。」「なぜ十年後の場面になるのか。」「お父さんが帰ってこないのはさみしいけれど、その時代にいるとみんなそうのか。」など、それぞれの疑問に端を発して、学習課題を組み立てていった。読みを深める中で、時間も余裕もなくなってくる。
 そして、終末の活動に選んだのは、「紹介文を書こう」であった。学習の手引きに沿って紹介文を書く材料を集めていく。子どもたちは一生懸命に作文を続けていたが、なかなか筆が進まず、苦しい思いをさせてしまった。子どもたちの「書きたい!」「書かねば!」という思いをもう少し引き出せたのではないか、そして、紹介文という形が本当にこの学習の終末にふさわしかったのかという疑念がぐるぐると頭を巡る。「こうあるべき」という“教え込む授業感”から抜け出せないでいる。道を逸れると不安になるのである。

 そんな時、さざなみのバックナンバーを見る。『一つの花』についても様々な実践が綴られており、やはり、子どもの姿が中心となって語られている。教師の手を離れ、子どもたちが課題とともに成長していく姿、主体的で対話的で深い学びがそこにはあった。記事を読むたびに、後悔と勇気を私に与えてくれる。毎回、悔しく思う。昨日の自分にも、過去の先達にも負けるもんかと奮い立たせてくれる。
(大津市立小野小)