巻頭言
今 を 生 き る
廣 瀬 久 忠

 3月にいよいよ定年退職の日を迎える。私にも38年目の最後の日が近づいている実感がない。

 初任校は金剛輪寺が校区にある秦荘東小。滋賀国体の開催年。アーチェリーの会場町になっていた。鼓笛金管パレードで全国からの皆さんをお迎えすべく、当時新指導要領に登場した「ゆとりの時間」は、自力で活躍できる特別活動に大きくシフトし、鼓笛金管バンドの練習もその中に組み込まれた。夏休みも隣の小学校と町立運動場に集まり、炎天下での練習が続いた。熱中症でふらつく子どもたちとマーチング練習に没頭した。完成形のイメージも承知せず、私の与えられた役割を必死でこなす事に精一杯の22歳の若輩教師だった。9月の終わり。運動会でも鼓笛金管パレードが披露された。国体当日の衣装を身につけたパレードが入場門を胸を張って入って来た。薄いクリーム色のスカートと半ズボン。上はブラウスとカッターシャツの上に深紅のベスト、帽子は薄いクリーム色で金色のふさを揺らせながら、隊列は堂々たる姿に凜とした眼差しをたたえ、マーチングを楽しむが如くこちらに迫ってきた。その様子にハッとした。「そうなんだ。この子どもの胸をはる姿を皆さんに見ていただき、歓迎の気持ちを表すことなんだ」と。情けないことにその子どもの姿に号泣し、立ち竦んでいた。その時に、私は教師の仕事とはこういうことなんだと遅きに逸したが思い知る。「子どもの自信と達成感と充実感を育てる黒子に徹しよう」「手柄は子どものものだ」。

 どうしたら私の願う授業ができるのか悩み続け、さざなみ国語教室の門をたたくのは2年目の5月。さざなみ国語教室の3回目の例会からである。
 5年目。27歳の時、ブエノスアイレス日本人学校に赴任。身重の家内は6か月後に生まれることになる長男を私と2人で産む決心をし帯同してくれた。
 若い5年目には日本中から派遣された教師陣が眩しかった。特に東日本の教師には「廣瀬のものの言い方は明瞭じゃないね。もっとはっきり言い切りなさい。相手に意を汲ませるような物言いはずるい人間のすることだよ」と切り捨てられた衝撃が私を育ててくれた。

 帰国して石部小学校へ。保健体育科の県指定校の初年度。体育科指導に没頭する。提灯学校と研究紀要の分厚さが矜持だった。家内に子育てを任せ、幼子の病気が重篤なのに授業研究の会議を抜けられなかった土曜日の夜。校区のスーパーでもとめた苺に涙しながら娘と家内にあわせる顔がなかった。
 8年間。担任できる幸せな時期だった。体育科の指導も国語科の指導も楽しかった。充実させた。谷口茂雄氏の指導で「授業の伏線化」で実践を重ねた。手応えがあった。少し黒子になれる自信も出てきた。

 そして、青天の霹靂。びわ湖フローティング指導主事として「うみのこ」児童学習航海事業に携わることになる。願っている方向性を見失ったとき、主任が「選ばれてここにいる。安全第一で子どものふるさと意識に培う汗をかけ」と諭され力が漲ったのを忘れない。言葉を選んで話をすることを鍛えた時代である。研究航海を企画担当し、18航海の実践事例集を生み出せた。総合的な学習の時間が創設された時期。その在り方について研究を深め石部南小へ。「すべてのカリキュラムをこの教師集団で作り出すのだ」の気概にあふれていた。教務主任の6年間。「教育課程の要」の役割を担うことに必死になった。ド真剣だった。

 再度、びわ湖フローティングスクールの3年間。その頃から「働く先生」のことを考え出した。業務見直しにも興味が生まれた。
 菩提寺北小・三雲小・菩提寺小・再度、菩提寺北小で勤め、今に至る。「あいさつにはじまり夢をつくる学校」になったか。
 今年は教師の働き方について量的から質的転換をはかるべく大きく改革を進めている。今夏以降打ち出した改革は34。今も日々改革を進める。新たな取組みも思案中。「今を生きる」のは黒子を極めるさなかにいるからである。
(湖南市立菩提寺北小学校)