ミュステーリオン
好 光 幹 雄

 二十数年前、教育課程が大きく改革されました。小学校の一、二年生の理科と社会をなくし、新しく生活科という教科を導入することにもなりました。教育界全体を揺さぶる大きな改革のその影響は、多方面に及びました。
 例えば、六年生の理科で、従来ニワトリの卵を孵卵器にかけ、ヒヨコが生まれてくることを観察し体験していた学習が、なくなりました。
 当時の滋賀県小学校理科部会の部会長、太田源太郎校長先生は最も嘆かわしい改革であると言われました。子どもの心に生命の尊重、神秘への畏敬の念を育てる機会が少なくなったからです。
 太田先生は理科を教える以上に理科を通して、人間教育を考えておられたからです。

 私は、今の子どもたちには様々な重要なことが抜け落ちていると思いますが、この「生命の神秘」ということも大切なキーワードであると考えています。
 卵焼きで使う同じ卵の有精卵が、二十一日後には、自ら殻を叩いて破り、雛が誕生します。心臓、頭、目があり、そして口があります。その口でピヨピヨと可愛げに鳴くのです。
 この事実をどのように説明するのでしょうか。二十一日経てば生まれてくることを孵化と言ってしまえばそれまでです。しかし、それは、この事実を他の言葉に置き換えたに過ぎません。この命の誕生の不思議さについて、何も説明してはいないからです。
 ですから、教科書の理科的な用語を操って学習するだけではなく、実際に孵卵器にかけて二十一日待って、命が誕生する瞬間を肌で感じなければならないのです。
 この命や生命に直接触れ合う体験を幼いときにしておかなければ、他者の命や自分の命の尊厳を感じることが出来ない無感動な人になってしまう恐れがあるからです。

 このような命の不思議さのように、人間の叡智を結集しても到底説明の出来ないことを、古代ギリシア人たちは、ミュステーリオン(神秘)と言いました。今の英語のミステリーの語源です。
 ところで、過去に猟奇的な殺人事件は幾つもありました。それは命を命として弄ぶものでした。しかし、平成になって地下鉄サリン殺人事件を筆頭に、もはや命を命とも思わない殺人事件が頻発しました。中でも大阪教育大学附属小学校の児童殺傷事件は、教育者としての我々を震撼させました。
 しかし、もし彼らが、高度経済成長の渦の中で、合理化と受験戦争を生き抜いていくために、感じることよりも机上で分かることを、熟慮することよりもできることが優先され、「神秘」に出会う機会を教育の中で奪われた人間だとしたなら、私たち教育者の責任は極めて重いのです。
(さざなみ国語教室同人)