紫のスカーフ
好 光 幹 雄

 中川いさを先生 俳壇「花藻社」元主宰に捧ぐ
 「おまえたち、操縦士の換えはいくらでもいる。しかし、大事な戦闘機の換えはないのだ。少しでも機体の調子が悪いなら、少しでもエンジンの調子が悪いなら直ぐに引き返してこい。これは隊長命令だ。これが出撃する諸君に対する私からの最後の言葉だ。」

 今から71年前の夏、神風特攻隊のある隊長が、渾身の力を振り絞って部下に命令した言葉でした。何も犬死にすることはないと。こんな戦い方は間違っていると。
 しかし、そのことを露骨に言うわけにはいかなかったのです。操縦士より機体が大事だから帰ってこい。そんな言い方しか出来なかったのです。
 この部隊に所属していた中川勲隊員(私の俳句の師)は、この隊長の言葉を語り継いで欲しいと、晩年、教師である私に言われました。あの時代でも、まともな考え方をした人間はいた。この戦争がおかしと思う人間は軍人の中にもたくさんいたのだと。

 中川先生の部隊のスカーフの色は紫。仏教で言えば高貴な色です。そんな紫のスカーフをなびかせながら戦友が還らぬ戦場へと旅立って行きました。明日は我も続くぞと思いながら。そして、この間違った戦争を早く終わらせるために。
 鹿児島県知覧(ちらん)から旅立っていった若者たち。学徒動員で出征した多くの学生たち。『きけ、わだつみのこえ』に綴られた彼らの声の多くは、この戦争が誤りであると読み取れます。そして自分を産み育ててくれた母への感謝の気持ちが溢れんばかりに記されているのです。

 中川先生は、出撃を目前にして終戦となりました。死を覚悟していた者が、死から解放された後、自分の覚悟は一体何だったのか。誰の為だったのか。何の為だったのかと疑ったのかも知れません。
 かつての私の父が、毎日命がけで戦ってきた数年を、たったりんご一つにしかならない軍人給与で済まされたように、中川先生の死への覚悟も、玉音放送ひとつでどうでもよかったものに変えられたのでしょうか。

 戦争を知らない私たちは、もはや推測でしかものが語れません。しかし、紫のスカーフをなびかせた隊員が、隊長の言葉を信じて戦後を逞しく生き抜いたことは事実です。
「犬死をしてはならない。君たち若者がたくましく生きなければどうする。」
 神風特攻隊の隊長の心からの叫びが、中川先生の戦後の人生を支えたのでした。
(さざなみ国語教室同人)