巻頭言
言葉の抽斗
山 根 悠 謳

 青空や花は咲くことのみ思ひ

 桂信子の句であるが、自然の本質を鋭く洞察していると思う。
 先日、私の所属する「花藻」の観桜句会に参加し、春の湖北を旅行した。海津大崎から奥琵琶湖パークウェイへと続く桜並木はほぼ満開で、車窓から見る風景は素晴らしく、夢の世界にいるような錯覚を覚えた。
 その時、ふと私の脳裏を過ったのが前句である。桜は人の事情など、あずかり知らぬことで、最も適した時期を見計らって咲き、僅か二週間足らずの花期の中で光輝き、やがて散りゆく宿命を背負って生きている存在なのだと……。こうして生まれたのが、次の私の句である。

 旅人よ花には花の持ち時間

 将棋の棋士は、持ち時間の中で最良と思われる手を考え、駒を動かす。桜も同じなのだろうとの連想から生まれた句である。
 また、桜を人に置き換えても同様のことが言えると思う。それぞれの人には各人の持ち時間がある。その持ち時間のなかで、精一杯生きることこそが望まれる人生なのだろう。
 「旅人よ」の旅人は当然私たちを指すのだが、実はもう一つ別の意味がある。芭蕉の「奥の細道」の前文、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」で桜もやはり時の旅人なのだろうということ。
 今から考えると、「待ち時間」という言葉が思い浮かんだのは幸運だった。私たちは日ごろ新聞や本を読んだり、テレビを視聴したりして言葉と接している。また、電車内やプラットホームなどで広告を目にすることもあるし、親しい友達と会話を交わす機会も多い。その時に、自分の中に言葉の抽斗を作り、素敵な言葉や気になる言葉をせっせと溜め込む努力を続けることが大切なのだとつくづく思う。

 最近、テレビの天気予報の番組で、ある気象予報士が桜の開花に合わせて、次の言葉を紹介していた。桜雲(おううん)、花霞(はながすみ)、残桜(ざんおう)、零れ桜(こぼれざくら)。咄嗟にメモして、言葉の抽斗に仕舞い、翌日確かめてみた。いずれも辞書(広辞苑)には載っているが、私の手持ちの歳時記にはない。いい言葉なので、季語として使い、作句に役立てたいのだが、どうしたものかと思案に暮れている。
(「花藻」准同人)