カレーライス
西 條 陽 之

 6年生になって初めて出会う物語文「カレーライス」(光村)は、大人へと成長していく息子とそんなわが子の成長に気づけないでいる父親の日常に起きた出来事を描いた教材であり、ぼく(ひろし)の置かれた状況や心情は、思春期の入り口に立つ学級の子どもたちにとっても、実感の伴った心象や共感を残したようであった。

 初発の感想交流での場面。「心が温かくなった。」「謝っていないけれど、特製カレーで仲直りができてよかった。」そんなほっこりとした意見が出された後、議論は誰が悪いのか、というテーマへと展開していった。
「謝らなかったのだから、ひろしが悪い。」「子ども扱いをするお父さんが悪い。」「いやいや、お母さんが悪い。」
 悪者は誰なのか。真相を究明したいとばかりに文脈を辿る。根拠を明らかにして自分の意見を述べるという点では素晴らしいことであるが、この単元での目標はそこではなかった。どれもひろしの視点であることに気づいてもらうには何が必要か。

 学習を進める中で、視点や語りについての知識を手に入れた子どもたちは、父の視点に立って考えるというお題を課された。父の心情を知る手がかりは少ない。苦戦しながらも父の心情に迫り、「どちらにも悪いところがある。」「ひろしの謝れない気持ちも分かりました。」と、物語の捉え方に広がりを持てたようであった。
 ところが、単元のまとめの感想では、「レアアイテムが手に入っていたらと思うと、やっぱりお父さんが悪い。」「そもそも30分なんて短すぎる。」といった意見が寄せられた。人物の視点に立つことだけではなく、彼らの生活経験がこれらの思いを引き出しているようだ。ひろしのフィルターが色濃く残ってしまうのは、同年代の立場として仕方のないことなのか。私の導き方にも課題があったに違いない。

 悪いのは誰か。答えは何か。子どもたちは、そこにあるはずの確かな形を求めている。正解のない時代にあっても、自分らしい答えを持っていればいいのだと言い放つことは無責任だと感じる。あらゆる視点に立つ技能を身につけてもらわなければならない。「相手の気持ちを考えて」とは非常に高度な技能であると、父の心情を考えて実感したのではないだろうか。ましてや自分の視点の外側に立つなどというメタ認知の視点に立つことは容易なことではない。だからこそ、つぶさに捉えて慮る能力は、物語文によって、本によって、国語によって、そして言語生活によって育まれるのだと思う。
 私もひろしの父のように、子どもの成長をしみじみと喜べるような父であり教師でありたい。また、子どもの視点に立つことも大切にしたい。要するに私も中辛でいたいということだ。
(大津市立小野小)