巻頭言
お酒をください
好 光 幹 雄

「お酒やて、お昼から。」
「へえ、偉いな。ほんまに。子ども思いのお父さんやな。」
 学生時代、私は京都の某高級ホテルの割烹料理店でアルバイトをしていました。昼からのアルバイトの時、こんな会話が仲居さん達の間から聞こえてきたのです。

 昼どき、父子が店に入ってきました。お父さんは優しそうで品のある方でした。しかし、足下がふらついています。どこか調子が悪いのかなと思いました。まさかこんな人が昼間から酔ったりはしていないだろうと。ベテランの仲居さんが直ぐに案内し、私はお茶を入れました。
 しかし、仲居さんは、お父さんのお茶を下げてきたのです。私のお茶の入れ方でも悪かったのかな? 中にごみでも入っていたのかな? すると、そのベテランの仲居さんが言ったのです。
「はい、お銚子一本。お酒をくださいやて。」
 そして、続けて言ったのです。
「お酒やて、お昼から。」
 すると、他の仲居さんが、
「へえ、偉いな。ほんまに。子ども思いのお父さんやな。」
 私は意味が分かりませんでした。ふらふらになっているのに、まだ飲むのか。しかもお昼から、息子の前で。いったい何が偉いのか。何が子ども思いなのかと。すると、私の顔色を見て、ピンと来たベテランの仲居さんが言いました。
「お茶断ちしてはんにゃて。偉いな。息子さんの試験が終わるまで続けてはるんやて。」
 私はようやく意味が分かりました。どうしてこのお父さんが昼間からふらついているのか。そして昼間からお酒を注文するのか。

 しかし、それを聞いて逆に心配になりました。恐らく地方から京都の大学の受験に親子で来て、このホテルに泊まっているのでしょう。何日受験が続くのか。そして何日このお父さんのお茶断ちが続くのか分かりませんが、お茶も水も飲まずにお酒だけ飲んでいて脱水症状にならないだろうか。お父さんが倒れてしまわないだろうかと。
 恐らくこのお父さんにとって、お酒は苦手なものだったに違いありません。もし私なら喜んでお茶断ちをして酒、焼酎、ビール、ワイン、ウイスキーを好きなだけ飲むことでしょう。
 しかし、このお父さんは、お茶や水の代わりに飲めない酒を飲んで、息子さんと同じように苦しみを共にし、乗り越えようとしているのでした。だから自分にとって最も苦しいお茶断ちという方法を選んだに違いないと思ったのです。

 今、思います。私は、このお父さんがお茶断ちをした時、どんなに苦しかっただろうかと。飲めない酒を飲むことがどんなに苦しかっただろうかと。
 しかし、息子さんの試験の結果がどうであれ、お茶断ちしたお父さんの姿は、一生この息子さんの心の宝、心の支えになったに違いないと思いました。
(さざなみ国語教室同人)