巻頭言
求め続けてきたこと
西 村 嘉 人

 今でも鮮明に記憶に残っている授業がある。  昭和56年、教師になって2年目の6月。奈良女子大学附属小学校の研究発表会。千代宏先生の国語の授業である。  当時の勤務校の教頭であった高田保先生から「ぜひ、千代先生の国語の授業を見ていらっしゃい」と勧められて、何の情報ももたずに授業を参観した。

 教材は「石うすの歌」。
 授業が始まるとすぐに黒板の中央に「石うすの歌」と題材名を書かれた。そして、子どもたちの発言が始まった。子どもたちは、机列の順に発言していく。
 「わたしは、石うすが『勉強せえ、勉強せえ。つらいことでもがまんして』と歌ったのは、ちえこやみずえにおばあちゃんが歌ったものだと読みました。前のところで広島に原爆が落ちて家族が死んでしまった孫におばあちゃんが心の中でつぶやいている言葉だと考えました。…」
 「おばあちゃんの石うすは、お盆の前の日になって動かなくて、これはおばあちゃんの気持ちだと読みました。その石うすをちえことみずえが2人で回す場面だから、わたしは石うすが歌っているのではないかと考えました。…」

 細かな文言までは正確ではないが、こんな調子で6年生の子どもたちが1人ずつ延々と、最後の場面で「石うす」が歌ったことについて、自分はどう読んできたかを発言していった。授業者の先生は、前で「うん。それで。」「そうか。」と頷きながら聞き、子どもの発言を黒板中央の「石うすの歌」の題名を挟んで、板書されるだけ。時折「○○。君もこのあたりのことで考えてたな」と指名される。指名された子どもは何事もなかったように立ち上がり、前の子どもの発言を受けて、自分の考えを発言する、といった授業が続いた。

 わたしは、呆然と授業を見続けた。授業が終わったとき、黒板は中央の「石うすの歌」をめぐっておばあちゃん、ちえことみずえ、物語の背景にある戦争、原爆のことが見事に関連づけされてまとまっていた。わたしにとって「震える45分間の国語の授業」だった。
 授業後、廊下で参観者に囲まれておられる千代先生を見つけお話に耳を傾けていると「君は、1時間目から教室で待ってくれていた人だな」と声をかけてくださった。チャンスとばかりに「どうしたら、今日のような授業ができるのですか」と尋ねたら「げすな質問をしおって」と一笑に付され、わたしの初研修は終わった。

 それからのわたしは、ずっと2年目の6月に見た国語の授業を追い続けた。学習中に「一人勉強」をさせることを真似し、子どもに席順で発表させることを真似し、黒板全体に子どもの発言内容をちりばめて板書することを真似し続けた。まさに猿真似である。
 真似を続けているうちに「一人勉強」は何のためにさせているのかを考えるようになった。子ども同士の発言がどう絡んでいくとよいのか考えるようになった。板書に何をどう記していくと子どもたちの学習が活性化するか考えるようになった。
 教職3年目の11月から縁あって「さざなみ国語教室」で吉永先生や多くの仲間に国語の授業について学ばさせてもらって今に至る。

 ふり返ってみると、わたしは37年間ずっと「あの授業」を自分もしたくて取り組んできたように思う。それは、「子どもが読む」「子どもが書く」「子どもが話す」「子どもが聞き合う」授業である。真似を続けているうちに、いつの間にか、「子ども」を主語にした授業追究へと変わった。
 退職を前にした今も、もっと国語の授業がしたいと思う。子どもがどう読むか、を楽しむ国語の授業を。
(彦根市立高宮小学校)