言葉の重み
弓 削 裕 之

 待機児童の問題を巡る匿名の書き込みが流行語に選ばれたのは、昨年のことである。過激とも思える言葉が一定の評価を得たことについては、賛否両論だった。
 かつて、匿名の掲示板の書き込みに対して、「トイレの落書き」と言い放った映画監督がいた。言葉に対する無責任さを指摘したものであった。昨年度流行語大賞の選考委員会でも、「(今年は)非常にとがった、過激な言葉が多かった。ネット社会の増幅が、言葉をある意味においては非常にとがったものにしているのでは」(選考委員のあいさつより)などと話題になったという。

 6年生は修学旅行で広島を訪れた。原爆の子の像の前で行われたセレモニーでは、千羽鶴を捧げるとともに、平和宣言を読み上げた。当日は代表のみであったが、事後学習として、改めて全員が平和宣言を書いた。「平和のために自分ができること」というテーマで書いたので、友だち関係のことなど、身近な話題が多かった。その中に、特に自分たちの言葉に焦点を当てて振り返った児童がいた。

◆ぼくは今、戦争がない平和な日本に暮らしています。しかし、70年程前の日本は、戦争をしていた平和でない国でした。平和な時代に生きているぼくは戦争を知りません。しかし、広島に行き、核兵器の怖さや大切な人を失う悲しい気持ちが分かり、少しでも戦争のことを知ることができたと思います。
 最近はみんなすぐに「死ぬほど大変」や「死にそう」と言います。ぼくもそれを聞いて、前は何も感じませんでした。でも今は、軽々しく「死ぬ」という言葉を使ってはいけないと強く感じます。ぼくはみんなが戦争の怖さを知り大切な人を失う悲しさを分かち合う社会にすることを誓います。

◆よくいやなことがあると「死ね」と笑いながら言う人がいます。言われただけでもとても傷つく人は、あまりいないと思っていました。けれど、修学旅行に行き、被爆された方の話を聞いて、改めてこの考えを見直しました。身近な家族や友だちをなくした方が「死ね」という言葉を聞くと、腹が立ち、悲しくなると思います。
 修学旅行の経験から、今、自分が言った言葉に責任を持ち、「死ね」という言葉を使いそうになったら、被爆された方のお話を思い出し、言葉の意味を考えることを誓います。

 「以前は何も思わなかった」と書いているが、この子たちはこれまでも、「死ぬ」という言葉に対して心のどこかに引っかかりを感じながら過ごしていたのではないかと思う。ヒロシマが、言葉の正しさを判断する一つのきっかけになってくれたのだろう。
 子どもたちのもとに言葉が届くまでに、大人が取捨選択してあげられる世の中ではないとしたら、受け取った言葉を子どもたち自身が正しく判断しなければならない。正しさは人それぞれかもしれないが、ここに紹介した二人のように、誰かの命に寄り添える人であってほしい。
(京都女子大附属小)