全国文学館めぐり(3) 金子みすゞ記念館
北 島 雅 晴

 山陰本線と美祢(みね)線が交差する長門市駅から北へ1駅行くと、終点の仙崎駅に着きます。仙崎駅から北へ、青海島(おうみじま)に向かって1キロほどの道はみすゞ通りと名付けられています。道幅6・7メートルほどで、昔ながらの家並みで、みすゞ生前の面影を残しているように感じます。道端には、所々にみすゞの詩が掲示されています。仙崎は、鯨漁を中心とした港町として栄えました。辛いことも幸せにつながると思うような土地柄であり、みすゞの心の広さと発想の豊かさを生み出したと考えられます。

 記念館は、みすゞ通り沿いにあり、みすゞが20歳まで過ごした場所に建てられました。「金子文英堂」と「本館」、2つのエリアがあります。金子家は金子文英堂という書店を営んでいました。その書店を再現した部分が、記念館の玄関にあたります。当時の家の様子を復元したつくりになっています。
 本館では、テル(みすゞの本名)の生涯を4期に分けて紹介しています。
 ○第1期 少女テル
 ○第2期 女学生みすゞ
 ○第3期 童謡詩人みすゞの誕生
 ○第4期 結婚そして
 小学校・女学校時代のみすゞは、口数はそれほど多くはないけれど、話が上手でどんなこともきちんと実行する人でした。人の悪口を言ったりせず、学校では一度もおこられたことのない優等生でした。小学校1〜6年生まで、ずっと級長をしていたということからも、テルの一面が分かります。直筆の手紙や写真があまり残されていないですが、展示品からみすゞの人柄を伺い知ることができます。

 みすゞは1903年(明治36)山口県大津郡仙崎村生まれ。テルと名付けられました。1930年、26歳で亡くなりますが、その後50年以上、世の中から忘れられた存在となりました。みすゞを甦らせたのは、童謡詩人矢崎節夫氏の功績によるものです。矢崎氏は、16年かけてみすゞの知り合いを根気強く訪ねて回り、多くの証言を得ました。取材の中で、みすゞの弟雅輔(正祐・まさすけ)氏が東京在住であることを突き止め、彼を訪ねます。雅輔はみすゞの清書した512編の詩が書かれたノートを保管していました。矢崎氏はそれを借り受けて整理し、全集として刊行されました。もしも、みすゞの弟が姉のノートを残していなければ、矢崎氏がここまで努力をしなければ、みすゞは永久に忘れ去られた存在になっていたことでしょう。今では、大人から子どもまで、だれからも愛される詩人となりました。そのような事情もあり、矢崎氏の著書「童謡詩人金子みすゞの生涯」に記述された事柄が、そのまま記念館の展示内容になったという感じがしました。本書を読んでから記念館を訪れると、理解が一層深まります。

 数年前、京都で矢崎節夫氏の講演会があることを知り、参加しました。矢崎氏の詩に対する思いと、みすゞの魅力を熱く語るすばらしい講演でした。この記念講演の主催は「京都みすゞ会」で、本会では毎奇数月の11日に、みすゞの詩の輪読会を行っています。毎回選者1名が詩を用意し、みんなで詩について語り合うそうです。全国にいくつかのみすゞ会があると知りました。

 やなせたかし氏は、「金子みすゞの世界は金子みすゞだけで模倣者を拒絶しているきびしさがある。」と記しています。読んで感動する、全く違う見方に気づかせてくれる、優しさが伝わっている、といったことをみすゞの作品を読んで感じることができます。そして、だれもがまねのできない奥深さ、みすゞだけの独特の世界を十分に味わいたいと思います。
(さざなみ国語教室同人)