生きることと言葉の力
吉 永 幸 司

言葉の力は生きる力
 生きる力の概念は幅が広くわかりにくいものです。が、少なくとも、言葉によって困難を乗り換えたり、元気や勇気が湧いたり、挫折して孤独になったりすることということであれば、納得します。このことを、教室の事実から考えると次のようなことを思い出します。学級担任をしていた頃のことです。作文を書かせようとして、指示をするとたん、「えっ」「また、書くの」という気持ちを、「作文はきらい」と大きな声で言う子がいました。その言葉から、書きたくないという雰囲気が生まれてしまいました。若い頃でしたから、「どうしてそんなことを言うのですか」と叱ろうと思った時です。「その言い方は、書きたいと思っている僕らも嫌な気持ちなる」と言う子がいました。その言葉で、急に、鉛筆の動く音だけの静かな教室になりました。言葉は学級という大きな組織も変えるのです。否定的に「また、書くの」という言葉を使った子も、自分を励ます言葉を心の中で使って、書く活動に向かったからです。

 言葉の力は読書で育つという要素もあると考えています。読書を大事にする子が多い学級は落ち着いた教室であるということも経験的に知っているからです。読書は、楽しい活動ですが長い時間、自分を律することも大事になります。また、想像力や語彙力に深さや広さによって面白さが違ってきます。読書は、かなりのエネルギーを必要する活動です。読書を大事する教室づくりに心がけたいと若い頃から考えてきましたが今も、壁の厚さも感じています。

「盲亀浮木」と生きる力
 生きる力と言葉を考える時、語彙力も大事な要素になります。四字熟語が好きな子がいました。授業中でも。「以心伝心ですよね。先生」と言ったり、「七転八起だよ。大丈夫」と友達を慰めるのです。「熟語君」とい呼ばれ、その子の影響で学級づくりにおいて、語彙を大事にすることを積み上げたこともありました。四字熟語は、生き方に響く内容が多く、出会いは感動的です。私にとって感動の出会いは「盲亀浮木」です。「盲亀浮木」(「盲亀浮木に値(あ)う」の略)は仏教の説話で次のような内容です。<大海中に棲み、年に一度だけ水面に浮かび上がる目の見えない亀が、漂っている浮木のたった一つの穴に入ろうとするが、容易に入ることができない。> 意味は、この世に様々な人がいるけれど、この出会いは非常に不思議な縁であるということなのです。つまり、人と人とが出会うというのは、目の見えない亀が、海に浮いている木の穴の中に首を出すくらい偶然で、人と人との出会いはそれほど奇跡的なことであるという教えの熟語です。

 意味の深さと出会いの新鮮さの勢いで、その年、朝礼の話と卒業式の式辞に「盲亀浮木」について自分の理解も含めて話をしました。とても、子ども達の理解を得る内容ではないことはわかっていましたが、熱く語ったという記憶があります。数年後、当時小学校2年生だった子と偶然、話す機会がありました。その子は、その言葉を覚えているだけでなく命の不思議さを思うと嫌なことにも負けないで元気がでるというのです。熟語の力なのかその子の感性なのか分かりませんが改めて、学年を越える言葉の力の大きさを感じたものです。
(NPO法人 現代の教育問題研究所理事長)