「話し合い」と「意識」
岡 嶋 大 輔

 朝の15分間を使った国語の帯時間に、4、5人のグループで話し合い活動を行ってきた。
 その際、教師がマニュアルや話形を示すというよりは、
「全員が意見を出せるように」
「出た意見をうまくすり合わせて結論を出せるように」
等といった意識を持って一人ひとりが司会を経験するようにした(本誌416号に掲載)。そのようにして全員が司会を経験する内に、「自分や相手の思いを大切にしながら結論を出そうとする意識」が全体に広がっていったように感じられた。

 他の教科でも、グループでの話し合いを活用して学習を進めていこうと取り組んでいる。
 例えば理科「流れる水のはたらき」の学習の1コマ。川の上流と下流の様子の違いを見つけた段階で「どうして、下流にいくほど河原の石は小さくなっているの。」という問いに対して個人で予想を立てた後、班でまとめるよう指示した。
 あるグループでは、A「上流から流される間に石が削られて小さくなるから」という考えと、B「小さい石ほど流されやすいから」という考えの2つが出されていた。
「上流の石はごつごつしている。下流の石は丸い。だから、石が削られているのは事実。」
「上流から下流に流される間に、石が削られて砂のようにまで小さくなるとは思えない。」
といったように、それぞれに川底の様子を想像した理由づけが飛び交った。
 一斉で、このグループは「考えが分かれた」というまとめで発表した。
 その後、砂場での実験で「石が削れていないのに下流に小さい粒がたまっていった」様子を確認することによって、Bの考えに落ち着いていったわけであるが、やはり、グループでの交流が子どもにとっても面白いようであるし、教師の目から見ても意義深いものであったと感じている。

 グループの中で考えを交わし合うという学習の形は今に始まったことでもないが、そこで何を大切にするのかということは、今も昔も、各々の指導者(時として学習者)が意識する、もしくは、考え続けなければならないことであろう。「1人の子が話しておしまい」「書いてあることを順番に確認しておしまい」「話題から逸れてしまう」「話を出し合うだけでまとまらない、すり合わせができない」「理由づけがはっきりしない」「話し合う必然性、ワクワク感がない」等と、話し合いにおける課題は多い。個々が何を「意識」して「話し合える」ようにするのか、未だ模索中である。
(野洲市立野洲小)