「コピーライター」に学ぶ
弓 削 裕 之

 進路に迷っていた頃、コピーライター養成講座に通っていたことがある。最初に出された課題は、「東京の人を大阪に呼ぶ」広告のキャッチコピー100本。半分くらいまではどうにかなるが、半分を超えたあたりで行き詰まる。もう無理、これ以上思いつかない…。何とか搾り出して提出をしたら、先生に「よい」と選ばれたのは、意外にも行き詰まった後に考えたコピーばかりだった。

 国語科に関わらず、キャッチコピーを考えるという言語活動を取り入れた実践をよく見かける。しかし、限界を超えるまで言葉に追い詰められるような状況に子どもたちが立たされることは、まずない。最終的に選ばれるのがたった一つ、たった数文字の言葉であっても、コピーライターは、その一つを決めるために何百通りもの言葉を生み出す。結果、たとえ一番最初に考えたコピーを選ぶことになったとしても、その一つは、他の何百の言葉によって価値づけられているのだ。

 コピーライターを主人公とした小説の中に、こんな言葉が出てくる。
「これは広告コピーじゃない。君のエッセイだ。」
「君は作家か?評論家か?ちがうだろう。コピーライターだろう。」
「商品よりも君自身が自己主張しようとしている。」
「初心にかえってほしい。広告コピーとは、商品を輝かせるためのものだ。」(奥田英朗「東京物語」より)
 自分に酔ったようなコピーを書いてきた部下に、上司が放った言葉である。キャッチコピーとは、何もかっこいい言葉を選べばいいのではない。どんなに飾られた言葉でも、相手に届かなければ意味がないのである。だからこそコピーライターは、「誰に、何を伝えるか」を見失わないようにする。

 みんなに届け
  工場から工場へ、想いを届ける。部品一つなければ、車は作れない。
  みんなに届け、日本の車。

 社会科の授業で、自動車工場の学習のまとめとして5年生が書いたコピーである。テーマは、「日本の車づくりのよさをアピールする」。決して安易に考えられたコピーではない。ここで言う「みんなに届け」には、「生産者から消費者に」という意味だけでなく、「関連工場から自動車工場に」という意味も込められている。何を伝えたいかがはっきりしていて、授業で学んだことがきちんとコピーの中に生きている。

 小学校は、コピーライターを育てる学校ではない。しかし、相手を意識して言葉を吟味する学習体験は、「豊かな言葉の使い手」になるための大切な一歩だと思う。子どもたちも、私たち教師も、言葉のプロフェッショナルに学ぶことはたくさんありそうだ。
(京都女子大学附属小)