虫 の 声
好 光 幹 雄

 昔「太郎こおろぎ」という教材が3年生にありました。ある学級に太郎というガキ大将がいました。ある日、隣の席の女の子がブラシつきの珍しい消しゴムを学校に持ってきました。太郎はその消しゴムを床の穴に落としてしまいました。昔の木造校舎です。床の板に節穴があり、その節穴を太郎は更に削って大きな穴にしていたのです。泣きそうになった女の子を見て、太郎はおれがとってきてやると言うと、床下へ取りに行きました。しかし太郎はなかなか戻ってきません。女の子は困ってしまいます。そんな様子を見て、先生が女の子に「何をしている。」と注意をします。すると女の子は、思わず節穴を見ながら「こおろぎが、鳴いているんです。」と言ってしまいました。すると床下から「リリ、リリ、リリ…。」と鳴き声が聞こえてきました。誰かが「太郎こおろぎだっ。」と言いました。それを聞いて先生も子も笑い出してしまいました。その後太郎は村長になってコンクリートの立派な校舎を建てたということです。

 ほのぼのとするいいお話でした。でも、どうして虫が鳴くの、と呟く子がいました。 なぜ、こおろぎが都合良く鳴くのかなど説明すれば、このお話の楽しさが消え失せてしまいます。ですから、そんな素朴な子どもの疑問に、これはお話だからだよ、とそんな返し方しかできませんでした。更にどうしてお話の中では、虫や生き物、雲や空までが、話したり聞いたりするの、という子もいました。この子には、人以外のものが話したり聞いたりすることが現実的でないとしか考えられなかったのです。この子には現実という壁があったのです。しかし、こんな質問をした子を、そんなこと考えないで、お話を楽しめば良いのにと。折角の大事なつぶやきが、私の単純な思いで、かき消されてしまったのです。でも、それは詩でも同じです。雨が話したり鉛筆が語りかけたりします。そういうことを受け入れられる詩心が彼にはまだ育っていなかったのです。すると、いつどのようにして子どもの心のに詩心が芽生えるのでしょうか。そういう疑問が湧いてきます。

 ある幼稚園でのことです。園児が大きな石を持ち上げたら、何匹もの団子虫が現れました。すると、園長先生がすかさず子どもに次のように尋ねられたのです。
「団子虫さん、なんて言ってる?」すると、園児は、「だんごむしさん、さむいっていってるよ。かぜひくって。」「そうか。団子虫さん、寒いって言ってるか。風邪引くって。そうやなあ。」「だから、だんごむしさん、まるまるの。(笑)」「そうか。だから、団子虫さん、丸まるのか。そうなんか。(笑)」「うん。(笑)」
 この園児は、団子虫が丸まる行動の裏には原因があると考えたのです。そして、なぜ、団子虫が丸まるのか、その丸まる理由を自分に置き換えてみたときに分かったのです。自分が体を丸めるときは、寒いときだと。だから、団子虫が丸まるとき「も」、寒いからだと。
 自分「が」ということを、他者「も」と置き換えたとき、園児は因果関係を見事に見つけたのです。そして園長先生が言われました。「体験だけさせたらいいのと違う。大人は必ず語りかけたらなあかん。子どもの行動を見て尋ねたらなあかん。尋ねられて、はじめて子どもは気持ちや心を見つけるんですよ。」
 この園長先生との出会いが、私の子ども観を大きく変えました。「体験」を振り返り「経験」にすること。そのことが重要なのだと。今ならこう尋ねられます。「こおろぎは、なんて言って鳴いてると思う。」 
(大津市立小野小)