「豊かさ」と「確かさ」
弓 削 裕 之

 朝、5歳の娘が見送ってくれることがある。娘が起きる前に仕事に出かけることが多いのだが、見送ることができなかった日は、悔しくていつも泣いているらしい。一階で大きな物音を立ててしまった時、私が出かけるのに気づいて起きたのか、二階で「待って!」と半分泣いたような声が聞こえる。私が「急がなくて大丈夫だよ」と言っても、階段をドタバタと下りてくる。抱っこをして「今日は早く帰ってくるからね」と告げ、バイバイのタッチをする。その後、娘は居間の掃き出し窓から私の車をのぞいて手を振ってくれる。アクセルを踏み込む足が思わず緩む瞬間である。そして、娘はそこで必ず同じ言葉を叫ぶ。
「リュックしょった(背負った)ままだよ!」

 初め、私は自分がリュックを背負ったまま車を運転しているのかと思い、慌てて確かめていた。しかし。いつも通勤用のリュックは助手席にきちんと置いてあった。娘からはリュックを背負っているように見えているのかなと思い気にせずにいたのだが、毎回同じことを叫ぶので不思議に思い、妻にそのことを尋ねてみると、こんな話を聞かせてくれた。以前、妻が仕事に出かける際に、同じように娘が見送ってくれていた時のこと。「今日、早く帰ってきてね」と言う娘に対し、妻が、「わかった!お母さん、すぐに帰れるように、リュック背負ったまま仕事するわ!」と返事をしたという。それからというもの、娘の中では「早く帰ってきてね=リュックしょったままだよ」になったのだ。子どもが生活の中で見つけた言葉というのはおもしろく、子どものその時々の気持ちをありのまま表現してくれているように感じた。大人の指導では、決して生まれない言葉である。

 低学年を担任した時、一年間のまとめの作文指導をするのに悩んだことがある。教科書のモデル文を参考にしながら、少しずつみんな同じペースで書き進めていくと、進度の差はなく、全員が同じ時間に書き終わることができた。指導者としては、達成感を感じる瞬間だったが、出来上がった作文に、子どもの言葉を感じなかった。確かにどの子もきれいにまとまった文を書いているのだが、型にはまりすぎていて、生き生きとした感じがしなかった。一方、子どもたち任せにすると、書けない子は大変苦しむ。話題が見つからない、どうやって書いたらいいかわからない…課題は様々だったが、その子たちが一様に抱えていた問題は、見通しが持てないことによる不安だったように思う。私に添削される度に、子どもたちの表情は曇っていった。自分の作文でなくなっていくのを感じたのだろう。モデルを示してみんな一緒に進めていった時は、少なくとも子どものノートに赤はなかった。

 教員免許更新講習で、富士山の写真を背景に、その高さを「豊かさ」、広がるすそ野を「確かさ」と例えた資料に出会った。子どもたちが「どのようにして」「何を学ぶか」を考えて指導することが大切だという。教師は、言語活動を通して子どもたちに指導事項を身につけさせなければいけない。しかし、教師が子どもの言葉を奪うようなことがあってはならない。「お手本通りのきれいな字もいいけれど、私はこの子の字も好きなんです。」いつか面談の時におっしゃった、保護者の言葉が心に残っている。
(京都女子大学附属小)