<エッセイ> 雑 木 林
好 光 幹 雄

 雑木林を歩くと心が癒やされます。春。若葉が萌え出て、小鳥がさえずる新緑の雑木林。夏。青葉が茂り、木漏れ日が差す雑木林。秋。赤や黄色の葉っぱで彩られ飾られた雑木林。そして、冬。葉っぱを全て落とした梢に、真っ白な雪だけを綿菓子のように乗せた雑木林。どの季節のどの雑木林も、みんな魅力に溢れ、人の心を穏やかにさせてくれるのです。私はそんな雑木林を歩くのが大好きです。裏山や近くの森の中を一人で歩きます。雑木林の美しい光景を見ながら、枝の新芽を探したり、木の実を採ったり、足元に咲く野の花を愛でながら。
 しかし、厳密に言えば、「雑木林」など存在はしません。
 なぜなら、「雑木林」にある雑木は、雑木ではないのですから。どの木にもみんな一つずつ、いえ、中には二つも三つも名前があるのですから。私たちがその名前を知らないだけなのです。あるいは、知っていても、言うのが面倒なだけなのです。全部まとめ、「雑木林」と呼んでしまいます。

 残念ながら、このように、「雑」で片付けられてしまうものが沢山あります。「雑草」と言う草もありません。一つひとつみんなどの草にも名前があるのです。
 「雑」を使った名前や熟語があります。雑木・雑草・雑誌・雑談・雑念・雑種・雑貨・雑技・雑学・雑音・雑多・雑踏・雑巾・雑記帳。なるほどと思います。でも、何がなるほどなのでしょうか?その便利さです。その多様性です。雑巾をいちいちトイレで使う布巾、乾拭きをする布巾、水拭きをする布巾と分けて言ってもいいのですが、雑巾とまとめて言えば何でも使えます。「雑草」も、「雑木」も、「雑貨」も、本当は、それぞれに草の正しい名前、木の名前、品物の名前があるのですが、あれこれ混じっている状態では全ての名前を挙げると切りがありません。全部まとめて「雑」な物として言えば、「雑草」、「雑木」、「雑貨」の一言で済まされます。

 しかし、そのような言葉の便利さと裏腹に、私たちは、自分よがりなものの見方をし、自分よがりな生き方をさえしてはいないでしょうか?
 例えば、雑音です。教室で授業をしているのに、外の工事の音がうるさい。そんな時、工事の音は教師にとって、ただの雑音以外の何ものでもありません。でも私は工事のあの音が大好きなのです。人が働く音はいい音です。隣の教室から流れてくる音楽も時には雑音です。授業の邪魔をし、子どもたちの集中力を遮ります。しかし、隣りの教室では、雑音ではありません。立派な音楽であり、まさしく授業の主役であり成果なのです。
 雑踏というのも、自分とは関係のない見ず知らずの多くの人が、それぞれの目的に応じて行動している群集です。しかし、サッカーや野球を応援するように集まって行動している人たちは、たとえ見ず知らずの群集でも雑踏とは言いません。観衆です。
 私たちは、自分とは関係の薄いもの、関係のないもの、自分とは目的や利害が異なり反するものやことを雑の一言で片付けてしまうことが多いのです。自分勝手な言い方です。
 しかし、世の中に、本当は雑なもの等ないのかもしれません。そのものになりきる。そのものとして認識する。それ自体として、感じ考えれば、雑というものは少ないのかもしれません。

 そんなことを思いながら、私は雑木林を歩くのです。本当は、雑木林ではないと。そんな林はないのだと。でも、なぜだかこの「雑木林」という言葉とその言葉の響きが大好きです。恐らく、私はこの言葉の中に、人の手があまり加わっていない自然のありのままの姿をイメージするからなのでしょう。自然の中で、自由に自分らしく生きているそれぞれの樹木の素晴らしさをイメージするからなのでしょう。ですから、「雑」というのはおかしいと言いながら、私の言っていることは、矛盾するのでしょうが、それでも私は、この「雑木林」という言葉とその響きが大好きなのです。
 逍遥学派もカントも西田幾多郎も歩いて哲学をしました。私も、今日もまた少し歩いてみます。雑木林の中を。哲学なんて出来ませんが、名もない思索をする森の人となって。
(大津市立小野小)