[特別寄稿]
作文と私 ー先生との出会いー
宮 田 笑 美

 作文嫌いになったのは、いつからでしょうか。一般的に「作文嫌い」になる理由は、二種類に分かれると思います。作文の書き方指導がされておらず、何を書いていいか分からないため嫌いになる場合と、学年が上がるにつれて「型」にはめ、嫌いになる場合です。私は、後者の方でした。

 小学校低学年までの私にとって、作文は自分の素直な思いや考えを書き、周囲の大人や友だちとコミュニケーションをとるための一つの手段でした。「特別なもの」と言っても、過言ではありません。作文を書くことで気持ちを整理し、それを伝えることで意思を図り、また褒められることにより自己肯定感を育んできました。しかし、学年が上がるにつれて素直に自分の気持ちを記すことが、周囲の大人に求められていないのではないかと疑い始めました。例えば、宿題として出される日記では、感想として「楽しい」「うれしい」等のプラスの言葉には共感的な朱書が成されているのに対し、「悲しい」「腹が立った」等のマイナスの言葉には共感に欠ける朱書が成されているのです。そして、作文を「型」にはめ、自分の考えや思いを書かなくなりました。

 そんなときに出会った先生が、作文を好きにさせ、私が小学校教諭を目指すきっかけとなった先生でした。その先生は当時私の母校で小学校教諭をされており、特に作文指導に力を入れておられました。父と知り合いだったこともあり、先生のお宅で二週間に一回程度弟と共に作文を習いに行っていました。作文を習うと言っても、少し談笑した後、今日あったことや本を読んで思ったことなどを作文に書き、先生に見せるというものでした。しかし、はじめは「型」にはまった作文を書いていました。当時の私は運動が苦手であったため、好きではなかった運動会を、楽しかったと作文に記しました。その作文を見せると、先生は開口一番に「本当に思ったことを書いていいんだよ。」とおっしゃいました。これは、私の性格を理解した上での言葉だったのだと思います。それから、考えたことや思ったことを素直に書くようになり、再び作文が好きになりました。

 今の私が素直な文章を書くことができるのは、この先生のおかげです。「作文」は、どの学年においても必ず書かなければなりません。しかし、教師の朱書指導や言葉かけ一つで、好きだったものを嫌いになることもあるのです。そのことを認識しながら、教師になる勉強に励む所存です。
(京都女子大学三回生)