日常に生きる国語
弓 削 裕 之

 国語科で学んだことが日常に生きるとはどういうことか、改めて考えている。習得した言語技術を活用できること、と言ってしまえば簡単だが、それだけではないように思う。国語で教わったことや、国語で体験したことをきっかけにして見方が変わることも、国語が「生きている」と言えるのではないだろうか。

 バス停に下校指導に行った時、列に並ぶ一年生の姿を見つけた。相学級のクラスの児童だった。こちらにも気づかず、ずっと空を見上げているので、気になって声をかけてみた。
「何を見ているのですか。」
 その女の子は、空を指差してこう答えた。
「飛行機雲です。長く伸びているんです。」
 見上げると、確かに飛行機雲が一筋、まっすぐに伸びていた。しばらく二人で眺めていると、女の子がはっと思いついたように口を開いた。
「一年生の一だ!」
 そして、はつらつとした声で音読を始めた。

 あおい そらの こくばんに
 なに かこう
 うでを のばし
 ちからを こめて
 まっすぐ いちねんせいの
 ぼくも かく わたしも かく
 いちねんせいの 一
 いちばん はじめの 一
 おひさま みてる
 かぜが ふく

 これは、国語の教科書に載っている詩、漢字の「一」を始めて学習した時に音読した「いちねんせいのうた」である。相学級の先生がこの教材で授業をした時、みんなで教室から窓の外を見たという。その日は快晴で雲ひとつない天気だったらしい。席に座りながら窓の外を見ていた子どもたちは、「もっと空をよく見たいです」「教室は狭いから、広いところで一を書きたいです」「外に出て音読してみたいです」と口々に言った。先生はクラスのみんなとグラウンドに出て、大空の下で音読の授業をされた。

 飛行機雲を見上げながら、女の子は腕を伸ばし、青空の黒板に「一」の空書きをしていた。国語の授業を通して、何気ない日常が価値あるものに変わった。
(京都女子大附属小)