【倉沢栄吉先生追悼】
短作文のむずかしさとは
好 光 幹 雄
 教室中の誰もが文字所通り頭から滝のような汗をぽたぽたと落としていました。吉永先生は、それ こそバケツで水を被ったように全身ずぶ濡れ。チョークを持つ指先からもぽたぽたと汗が落ちます。 いえ、汗というより全身全霊を込めて授業に打ち込む者の血潮と言っても過言ではありませんでした。

 日本国語教育学会全国大会。筑波大学附属小学校での公開授業の一幕。酷暑の中。そんな吉永先生が板書される真横に、屈むようにして授業の展開を一言一句、一挙手一投足も見逃すまいとおれらた青木幹勇先生。更に時折、はあはあと肩で息をされながらも、吉永先生と子ども達の間に結ばれた目には見えない糸を、全身で手繰り寄せるように見つめる倉澤栄吉先生がおられました。二十数年前のもう二度と見ることが出来ないドキュメンタリー映画のような場面でした。

 倉澤先生は翌日の講演で、「キッド・ウォッチング」という言葉を取り上げて、広い視野で世界の 教育の最新の情報を織り交ぜがら、先生の子ども観や教育哲学を話されました。インターネットが普及しない時代。毎朝英字新聞を読まれ、世界の教育の動向を客観的に捉え、日本の教育の歩むべき道を指し示されたお話に、私は深く感動したのでした。

 しかし、先生の語られた方向とは異なった方向に歩んでしまう教育界をも先生は既に見通され、二 十数年前の教育誌に、まるで予言するように書いておられました。今更ながら、驚くべき洞察力をお 持ちだったのです。

 そんな先生をお招きしてのさざなみ国語教室の月例会。温厚な眼差しが、逆に先生のお言葉の一つ 一つを鋭くします。倉澤先生は、常に言葉を選ぶように、確かめるように話されました。それは、先 生のお書きになった文章にも滲み出ています。それでも尚、先生は次のようにご自分の文章について 書いておられます。

 『短作文のむずかしさ』
 私は毎日何枚かのハガキを書く。心をこめて書こうとするが、なかなか文章のうえにあらわれないのである。僅か百字ぐらいの分量だが、むずかしいものだと痛感している。随筆は相手もなければ用件もないから、いっそうむずかしい。(国語教育236号青玄会・平成三年)

 こう前置きしながら青玄会賞の「ことば随筆」の審査評を井上、浮橋、野地、森久保各先生方と書いておられます。誰よりも言葉を選ばれる先生の人に対する思いやりと私は感服しました。

 そして子どもについても同じなのです。子どもを如何に大切にし価値を見出すのか。先生の教育者 としての関心事は常に其処にあったのだと改めて思うのです。
(大津市立小野小)