巻頭言
句点のメッセージ
高 丸 もと子

 夜中に手探りで書き留めた筈のものが、翌朝になって見ると読めたものではありません。ミミズが這ったような文字で何と、ノート4ページにも、わたって書いているのです。
 夢の中で書くということなど滅多にないことですが、それでも、もしもの時には、正座をして書こうと決めました。

 ある時、締め切りが迫っているのにどうしても書けません。眠っているのか、覚めているのか、その淡い意識の中で、確かに原稿を書いている自分がいました。しかも、書いたあと読み直し、安堵している自分までいるのです。電気をつけ、正座をし、目は閉じたままで、一つの言葉も逃がさないように慎重に書き留めました。それが次の詩です。

  「祭りに行った日も/風邪引きで休んだ日も/何もなかった日も/みな句点を打って終わっている■そうなんだ/どんな一日でも終わりは/まるなんだ■心が破れそうになった日も■小さなまるを打って日記を閉じた■だから/また歩けた■空も/花まるのような/夕日で閉じる」

 翌朝、これを「日記」という題にして投函しました。

 それ以来、私は今まで気にも留めなかった句点を意識し始めました。文章の終わりに打つ記号が「×」ではなく「○」だなんて。何と素晴らしいことでしょう。
「終わりよければすべてよし」というメッセージが句点に込められているような気がしてなりません。どんな一日でも生きていること以上にうれしいことはないのですから。

 子ども達は毎日、教科書を読み、文字を書きます。ノートには毎日、新しい丸が生まれていきます。さりげない日常の中で「○」を書く行為は「×」を書く行為よりも良いに決まっています。私たちは無意識のうちに「。」を生涯の中で何度書くことでしょうか。
 そんなことを思っていると、雨上がりにぶら下がっている雫まで句点に思えてきました。大地に句点を打ったあとは、すがすがしい青空!「終わりは始まり」。句点の中は自然の摂理をも潜ませているのかもしれません。
 誰かが私にくれた宿題のような夢の中の「句点」。この宿題をもっと、楽しもうと思っています。