巻頭言
松 上  孝

 来し方四十年前の二月国鉄亀山駅前発田村神社行の臨時バスの発車ブザーを押していた。
 弱冠二十才の紅顔の青年車掌は「厄除詣」の善男善女を乗せて、日本で二番目に営業を開始した、国鉄バス路線「亀草線」を近江土山へ向かって、ひた走っていた。
 職業として選んだ人生の出発は東海道五十三次の宿場町の内四十七番目の宿亀山でありました。関宿・坂の下・土山・水口・石部・草津、鈴鹿峠を挟んで、滋賀県と三重県を近畿地方自動車事務局水口自動車営業所営業係を命ずの辞令の元十年間亀山と営業所のある甲賀郡水口町を自社通勤しました。
 地理的には、亀山から鈴鹿峠までの道のりは二十キロ「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」今も鈴鹿馬子唄保存会が往時の東海道を忍ばせている。

 故あって、私は結婚と同時に、バスからレールへと乗り換えることとなり、国鉄天王寺鉄道管理局草津線石部駅へ駅務係として赴任。以来同三雲駅・関西本線亀山駅・紀勢本線徳和駅・松阪駅・関西本線伊賀上野駅、そして国鉄からJR西日本鉄道本部になった東海道本線草津駅が職歴の終着駅になりました。
 ちなみに亀山・草津間の距離は東海道(国道一号線)五八キロ、JR関西線・草津線五七キロ、ほとんど差はない。伊勢と近江の往来が東海道五十三次の内七宿、JR関西線・草津線合わせて十四駅間、到達時刻は一時間余り、決して遠いとは言えないが、近いと言える距離ではない。微妙な感覚をもつのは、伊勢と近江を分かつ鈴鹿峠の存在である。千メートル足らずの鈴鹿山脈を越える峠が屏風か衝立となってお互いの距離を隔てているように思われました。
 さてその草津の先は、琵琶湖のさざなみがあり、亀山の先は、伊勢湾の潮騒が聞こえる。
 潜っては鳰だけの空さがすと詠んだ伊勢の子ども。
 潮浴びて海なき国へ帰りゆくと詠んだ近江の俳人。
 東西百キロ足らずの間が私の現役時代の人生航路でありました。
 行きはバスで出掛け、帰りは鉄道を使って、定年に至りました。

 さざなみ国語教室発行者代表、吉永幸司さんとは、俳壇花藻社創立七十周年記念全国俳句大会・祝賀会が本年五月にJR草津駅近くで開催され、文字通り「往く春を近江の人と惜しみけり」のご縁を楽しみにしています。
(俳壇花藻社三重支部)