巻頭言
名 人 の 足
間 中 千 恵 子

「どうしたの、その包帯。」
 お盆に実家に帰ると、父は足の甲をくるむように包帯を巻いていた。
「はさみで切っちゃって…。」
「医者、行ったの。」
「行ってない。医者嫌いだから。」
「何回言っても、聞かないのよ。」
 あきらめ顔の母。
 父の足は、何度も怪我をしているけれど、私が小さいときには、キリギリス捕りの名人の足だったんだ。

 私の幼い頃、夏の我が家では、たいてい、キリギリスが虫かごの中で鳴いていた。鈴虫の鈴を転がすような軽やかな音とは対称的な、金属を引きずるような鳴き声。近所ではあまり見かけないこの虫は、お盆に田舎に帰ると必ず捕ってきたお土産だった。
 祖母が健在だった頃まで、毎年行っていた田舎では、山に行ったり川で泳いだり田んぼに入ったりして、散々遊んで過ごしていた。遊び尽くした頃に、
「行くぞ。」
と父の声がかかる。虫捕り網と空の虫かごを持ってちょこちょこついていく。

 川遊びに行く途中の道をそれると、葛が生い茂った場所がある。そこがキリギリス捕りの場所だ。
 そこに着くと、それまで昔の思い出話で饒舌だった父が、急に無口になる。
「静かにしろ。」
 キリギリスの鳴き声に耳を傾ける。
 ここだ、とねらいを定め、足音を立てないようにそろりそろりと鳴き声のする方へ近付いていく。
「網、かせ。」
 この一言で虫捕り網を渡すと、私はもうそこから動いてはいけないことになる。
 虫捕り網を手にした父は、サンダルを片方ずつそっと脱ぎ、裸足で入っていく。くさむらの方へ矢印のように脱ぎ捨てられたサンダルを見つめ、キリギリスの鳴き声と、かすかに聞こえる父の足音を聴き、そのときを待つ。
「ガサッ。」
 網をかぶせた音。
「よし。」
 さすが百発百中、網の中にはキリギリス。緊張感を伴う父と二人のお土産捕りの時間が、何とも言えず好きだった。
 今、あの田舎には、裸足で入れるくさむらもなくなり、入ることもなくなってしまった。しかし、いつまでも私の中で、父の足は、憧れの名人の足だ。

 鈴虫の鳴き声から思い出した、幼い日の夏の一コマである。
(野っ原詩の会幹事)