学び手と先生考 1
森  邦 博

 授業のあり方を考えていた時「小学教師必携」(諸葛信澄著、明治6年発行)に出会った。明治初期、近代教育を進める教師を育成するために書かれたものである。
 「読物」の項目は次のように書き始められている。

一、五十音図ヲ教フルニハ、教師先ツ其教フベキ文字ヲ指シ示シ、音声ヲ明カニシテ、之ヲ誦読シ、第一席ノ生徒ヨリ順次ニ之ヲ誦読セシメ、然ル後調子ヲ整ヘ、衆生徒ヲシテ、一列同音ニ、数回復読セシムベシ、但シ同音ニ誦読スル際、或ハ懸図ニ注目セズシテ誦読シ、或イハ沈黙シテ誦読セザル生徒アルガ故ニ、教師能ク生徒ニ注意スルコト緊要ナリ。〜

 先ず先生が正しい音読をして子どもたちに見本を見せる。それから一人ずつ復唱させる。その後、全員で一斉に同じように音読。と、指導手順が細かに示してある。スモールステップや繰り返しが大事な指導のポイントとなっていることがうかがえる。
「然る後調子を整え」、「数回音読せしむ」からは、学校の教室でよく聞く一斉音読のあの声の調子、そのルーツはここになるのかもしれないな?とも思ってしまったりもした。
 どの子にもしっかりと理解させるためには、ただ声を出しているだけの子やみんなの中に紛れて声をださないですましている子にも、十分注意を向けておくことと、指導上の留意点も記述されている。
 一斉授業における具体的な教室を想定して、指導者=先生は、どう対処していけば指導の効果を上げられるかに、細かく丁寧に触れていることには感心した、

 一斉授業の形態、これが当時の最も新しい指導法。
 子どもには、先生が用意した答え(正しい読み方)を理解する(正しく復唱)ことが求められる。同時に、先生には、どんな子どもにも、一定水準の理解に到達できるような指導力をつけることが求められていることでもある。だから先生はきめ細かに留意して指導をしていかなければならない。一人も放っておけない(おかない)という思いを強く持って、一人一人に目を向けて…との、今にも通じるメッセージが読み取れたりもする。

 平成の今、指導形態は一斉だけでなく工夫が見られるようになってきている。けれども、先生を通じて子どもたちが学ぶという学校の在り方は、今も変わったわけではないだろうと思う。
 先生は自らの学力観を問い続け、指導観を磨き、授業の充実を通じて学び手=子ども育てるために努力すること、これは、変わらない教師にとっての課題の一つであると思ったのであった。
(滋賀県教育会)